東京地方裁判所 昭和48年(ワ)1251号 判決 1978年9月20日
目次
(当事者の表示)<省略>
(主文)
(事実)<省略>
(理由)
一 本件事故の発生
1 当事者間に争いのない事実
2(一) 本件事故に至るまでの自衛隊機の飛行経路
(1) 当事者間に争いのない事実
(2) 松島派遣隊の訓練空域並びに飛行制限空域と臨時訓練空域「盛岡空域」の設定
(3) 教官機及び訓練生機の接触約三分前からの飛行経路
イ 原告ら主張の飛行経路について
ロ 被告主張の飛行経路について
ハ 結論
(二) 本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路
(1) 当事者間に争いのない事実
(2) 全日空機のフライト・データ・レコーダの記録の解析に基づく推定について
(3) 西山中学校からの目撃供述に基づく推定について
(4) カラー・データ・フイルムの解析に基づく推定について
(5) 全日空機の計器類の指示に基づく推定について
(6) 結論
(三) 空中接触地点
(1) 全日空機垂直尾翼の上部方向舵のサーボ機器の落下点を基礎とした弾道計算による推定について
(2) 全日空機のフライト・データ・レコーダの記録の解析による全日空機の飛行経路を基礎とした推定について
(3) カラー・データ・フイルムの解析等に基づく推定について
(4) 目撃供述に基づく推定について
(5) 結論
(四) 本件接触三分前から接触時までの相対飛行経路
(1) 「自白の撤回」についての原告らの異議について
(2) 原告ら主張の相対飛行経路及びその交差角について
(3) 被告主張の相対飛行経路及びその交差角について
(4) 結論
(五) 接触時刻
(1) 全日空機操縦者のブームマイクの送信ボタンの空押しにより生じた雑音記録の解析に基づく推定について
(2) 全日空機機長の通話の最後の絶叫に基づく推定について
(3) 隈の緊急通信開始時刻に基づく推定について
(4) 結論
二 被告の責任
1 国家賠償法第一条の責任
2 隈及び市川の過失(その一)
(主位的主張)ジエツトルート内で飛行訓練をしない義務及び訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で飛行訓練をしない義務とその違反
(一) ジエツトルートの保護空域内で飛行訓練をしない義務
(1) ジエツトルート及び保護空域の意義について
(2) 航空情報としてのジエツトルート及び保護空域の公示性について
(3) ジエツトルートJ11Lの飛行頻度について
(4) 機動隊形の編隊飛行訓練の危険性について
(5) 機動隊形の編隊飛行訓練の航空法違反について
(6) 結論
(二) 松島派遣隊の訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で飛行訓練をしない義務
(1) 松島派遣隊の訓練空域及び飛行制限空域の設定
(2) 松島派遣隊飛行訓練準則の法的効力
3 隈及び市川の過失(その二)
(予備的主張)隈及び市川の見張り義務並びに衝突回避義務とその違反
(一) 有視界飛行方式による航空機の見張り義務及び衝突回避義務
(二) ジエツトルートJ11L近傍における見張り義務及び衝突回避義務
(三) F-86Fジエツト戦闘機操縦者の編隊飛行訓練における見張り義務
(1) F-86Fジエツト戦闘機操縦者の一般的見張り義務
(2) 教官隈の見張り義務
(3) 訓練生市川の見張り義務
(四) 教官機及び訓練生機から全日空機に対する視認の可能性
(1) 視認の可能性の判断要素
(2) 教官機から全日空機に対する視認の可能性
(3) 訓練生機から全日空機に対する視認の可能性
(4) 結論
(五) 隈及び市川の衝突予見可能性及び衝突回避可能性
(1) 隈及び市川の衝突予見可能性
(2) 隈及び市川の衝突回避可能性
(3) 結論
(六) 隈及び市川の航行上の過失
4 結論
三 被告主張の全日空機操縦士らの過失並びに反訴請求原因について
1 民法第七一五条による責任
2 全日空機操縦者らの過失
(一) 有視界気象状態における見張り義務
(二) 全日空機から訓練生機に対する視認の可能性
(1) 被告主張の相対飛行経路を前提とした視認の可能性
(2) 原告ら主張の相対飛行経路を前提とした視認の可能性
(三) 全日空機操縦者らの衝突の予見可能性
(四) 全日空機操縦者らの衝突回避義務
(五) 全日空機操縦者らの衝突回避の可能性
(六) 全日空機操縦者らの航行上の過失
3 結論
四 過失割合及びこれによる負担割合
五 本訴原告全日空の請求について <省略>
六 本訴原告保険会社6社の損害賠償請求権について<省略>
七 反訴原告の請求について <省略>
八 反訴被告の抗弁について <省略>
九 反訴請求の遅延損害金等 <省略>
一〇 結論
原告(反訴被告) 全日本空輸株式会社 ほか一〇名
被告(反訴原告) 国
訴訟代理人 田代暉 和田衛 牧野巌 ほか一一名
主文
一 被告は原告全日本空輸株式会社に対し、金二億七四九八万〇六四〇円及び内金九七四万一九二五円に対する昭和四六年九月二六日から、内金一二四万〇七六一円に対する同年一〇月六日から、内金一四二五万四七二九円に対する同年一一月二一日から、内金九三四万二九九二円に対する同年一一月二三日から、内金二八二七万四八三五円に対する同年一二月一日から、内金一四三万三一〇九円に対する昭和四七年一月三一日から、内金九四〇七万五一三二円に対する同年九月一四日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告は原告東京海上火災保険株式会社に対し、金五億三八六〇万六〇五〇円及び内金五億一九〇〇万六〇五〇円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
三 被告は原告同和火災海上保険株式会社に対し、金二億四八六九万三〇九九円及び内金二億三九六四万三〇九九円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
四 被告は原告住友海上火災保険株式会社に対し、金一億七七二四万五三五八円及び内金一億七〇七九万五三五八円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
五 被告は原告大正海上火災保険株式会社に対し、金一億六三五〇万五四〇八円及び内金一億五七五五万五四〇八円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
六 被告は原告千代田火災海上保険株式会社に対し、金一億二二二八万五五五七円及び内金一億一七八三万五五五七円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
七 被告は原告日動火災海上保険株式会社に対し、金五六三三万三七九六円及び内金五四二八万三七九六円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
八 被告は原告安田火災海上保険株式会社に対し、金四一二一万九八五〇円及び内金三九七一万九八五〇円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
九 被告は原告日産火災海上保険株式会社に対し、金一九二三万五九三〇円及び内金一八五三万五九三〇円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
一〇 被告は原告富士火災海上保険株式会社に対し、金五四九万五九八〇円及び内金五二九万五九八〇円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
一一 被告は原告第一火災海上保険株式会社に対し、金一三七万三九九五円及び内金一三二万三九九五円に対する昭和四八年二月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
一二 反訴被告(原告全日本空輸株式会社)は反訴原告(被告)に対し、金七億一一二五万一二〇九円及び内金四八三万七七六五円に対する昭和四六年七月三一日から、内金一〇八〇万円に対する同年八月一日から、内金五二〇〇万円に対する同年八月二日から、内金一二〇万円に対する同年八月三日から、内金四〇万円に対する同年八月四日から、内金四三万二〇〇〇円に対する同年八月一三日から、内金二八万五四六一円に対する同年八月一四日から、内金一億七六三三万四二八八円に対する同年一二月四日から、内金八六三万八二八二円に対する同年一二月八日から、内金三億六二一〇万五九八七円に対する同年一二月一七日から、内金三二六万円に対する同年一二月二二日から、内金一二〇九万六八〇四円に対する昭和四七年一月二九日から、内金四八八五万七〇九六円に対する同年三月二日から、内金二七万九〇四二円に対する同年三月一〇日から、内金六一一万六六二〇円に対する同年四月九日から、内金二一六六万〇五四九円に対する昭和四九年三月一二日から、内金一九四万七三一三円に対する昭和五〇年五月二一日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
一三 原告らのその余の請求を棄却する。
一四 反訴原告(被告)のその余の請求を棄却する。
一五 訴訟費用は、昭和四八年(ワ)第一二五一号、同第一二五五号及び昭和五二年(ワ)第六一一九号を通じこれを二分し、その一を原告らの、その余を被告の各負担とする。
一六 この判決の第一項ないし第一二項は仮に執行することができる。
事 実 <省略>
理由
一 本件事故の発生
1 当事者間に争いのない事実
松島派遣隊所属の隈操縦にかかる教官機及び市川操縦にかかる訓練生機の二機編隊が、昭和四六年七月三〇日午後一時二八分ころ航空自衛隊松島基地を離陸した後北上し、同派遣隊の定めた訓練空域付近において機動隊形の編隊飛行訓練を実施していたこと(ただし、右訓練空域である盛岡空域の範囲については後述する。)、同派遣隊がジエツトルートJ11L両側各五海マイル(六海里と同義、約九キロメートル)内の高度二万五〇〇〇フィートから三万一〇〇〇フィートの空域を飛行制限空域と定めていたこと(ただし、ジエツトルートについては後に詳述する。)、全日空機が同日午後一時三三分ころ千歳飛行場を離陸し、函館NDBを通過したこと、訓練生機の右主翼付根付近後縁と全日空機水平尾翼安定板左先端付近前縁とが接触し、全日空機が墜落・毀滅し、乗客・乗員合計一六二名全員が死亡する事故が発生したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
2 その余の具体的な事故の態様について、以下順次判断する。
(一) 本件事故に至るまでの自衛隊機の飛行経路
(1) 当事者間に争いのない事実
教官機及び訓練生機の松島基地離陸後川尻付近に至るまでの飛行経路が別紙図面一のとおりであること、二機編隊による機動隊形訓練の標準的飛行要領は、別紙図面四に示す編隊長機(教官機)と三番機(訓練生機)との関係位置から開始し、編隊長機は、直進及び一定のバンク角による左右の旋回を等速・等高度(高度を変化させる場合もある。)で行い、三番機は、前後の修正を高度と速度の変換によつて行い、横間隔の修正を機軸の変化によつて行うものであること、旋回の要領は、内側旋回の場合、三番機は、旋回に入つたならば編隊長機の真横から後方一〇度の線まで近づき、速度を高度に換えて(上昇して)機速を減少させながら、この一〇度の線に沿つて編隊長機の直上付近を通過して外側に移行し、外側旋回の場合は、三番機は、施回に入つたならば横の間隔を維持し、編隊長機の真横から後方三五度の線まで近づき、高度を速度に換えて(下降して)機速を増して内側に移行し、所定の関係位置につくものであり、その旋回半径は約四ないし五マイルであること、教官機及び訓練生機が川尻付近から機動隊形の編隊飛行訓練を開始し、その後北上しながら機動隊形における左右の旋回を繰り返していたこと、本件事故直前に教官機から訓練生機に対し、異常事態の通信がなされたこと、市川は、その直後に自機の右側、時計の四時から五時の方向やや下方至近距離に全日空機を発見し、とつさに左上方へ回避操作をしたが間に合わなかつたことはいずれも当事者間に争いがない。
(2) 松島派遣隊の訓練空域並びに飛行制限空域と臨時訓練空域「盛岡空域」の設定
防衛庁航空自衛隊第一航空団松島派遣隊が、同派遣隊飛行訓練準則第一五条第一項において、「飛行訓練は原則として訓練空域において実施するものとする。」と定め、同条第二項において「ジエツトルートJ11Lの五海マイル内の高度二万五〇〇〇フイートから三万一〇〇〇フイートの空域においては、飛行訓練(航法、模擬緊急着陸、計器出発、進入を除く。)は、やむを得ない場合を除き、実施しないものとする。」と定めていることは当事者間に争いがない。
<証拠省略>によれば、本件事故当日、教官機と訓練生機の二機編隊に割り当てられた訓練空域は、別紙図面一の横手空域内の北部をその一部として含む臨時の訓練空域「盛岡空域」であり、この空域は、常設の横手空域及びこれを北側に拡張した三角形の空域(その東側境界線は、ジエツトルート(その意義については後述する。)J11L西側五海マイルの線である。)を南北に二分する推定二分線の北側の空域で、事故当日の朝、訓練を行う機数の関係から設定されたものであるとされ、<証拠省略>によれば、昭和四六年八月四日、事故調査委員会の委員後藤安二らが松島派遣隊に赴いた際、同派遣隊寺崎弘隊長らから訓練空域の説明を受け、盛岡空域につき右と同趣旨の説明を受けたこと、その後、同年一二月九日付回答書により防衛庁の防衛局長からも同様の説明を受けたことが認められる。
しかしながら、<証拠省略>を総合すると、つぎの事実が認められる。
防衛庁航空自衛隊第一航空団は、浜松基地を含む中部地方に配置された部隊であり、第四航空団は、松島基地を含む東北地方に配置された部隊であるところ、昭和四六年七月一日、第一航空団の一部が飛行訓練を実施するため、第四航空団に派遣されたが、その部隊が松島派遣隊であつた。
防衛庁航空自衛隊第四航空団と第一航空団松島派遣隊は、別紙図面三の一の横手、月山、米沢、気仙沼及び相馬の五つの訓練空域を共用していたものであるが、事故当日の朝八時前ころ、松島派遣隊の飛行班長補佐の土橋国広が同隊の各飛行班に訓練空域を割り当てる際、第四航空団第七飛行隊との調整の必要上、松島派遣隊が使用できる訓練空域が一つ足りなくなつた。
そこで土橋国宏は、同派遣隊のブリーフイングルーム(飛行直前に簡潔な指示を与える部屋)にあつた一〇〇万分の一の航空図を見て、空域的にスペースのあるのは横手空域の北の部分であると判断し、戦闘機操縦課程の主任教官である小野寺一尉に対し、右航空図を示し、横手空域の北側から盛岡周辺を含む空域を臨時訓練空域として指で差し示した。土橋国宏は、その当時、航空路についてはある程度意識していたが、ジエツトルートJ11Lがその付近を通つていることについては念頭にないまま右臨時訓練空域を指定し、したがつて、小野寺一尉に対し、ジエツトルートを避けて訓練するようにとの指示もしなかつた。なお、松島派遣隊の寺崎隊長は、事故当日の朝は不在で事故後に帰隊し、右臨時訓練空域設定の経緯を聞き、松島派遣隊の前記飛行制限空域のことを忘れて漠然と盛岡周辺の空域を訓練空域に指定したことにつき、土橋国宏を叱責した。
一方、隈及び市川は、事故当日の朝、訓練計画を記入したスケジユールボードを見て、訓練空域が盛岡空域であることを知つたが、土橋や小野寺らから盛岡空域について特に説明を受けることはなかつた。
右認定に反する<証拠省略>の供述記載部分は、<証拠省略>に照らして措信することができない。
また、<証拠省略>によれば、横手空域及び拡張した三角形の空域を南北に二分する推定二分線は非常にあいまいなもので、存在したかどうかはつきりしないことが認められるし、<証拠省略>によれば、盛岡空域の設定者である土橋自身、何故三角形の空域のように作図(別紙図面一参照)されたのかわからないと述べていることが認められる。
そうすると、当日臨時に設定された「盛岡空域」が、事故調査報告書に記載された横手空域の北部及び拡張された三角形の空域(別紙図面一)であつたと認めることはできず(右は、事故後、松島派遣隊長らが前記飛行制限空域を考慮して作図したものと推測される。)、むしろ、横手空域の北側から盛岡周辺にかけての漠然とした範囲であつて、空域として範囲が明確に特定されていたものではないと言わざるをえず、従つて、教官機及び訓練生機が編隊飛行訓練を実施していた盛岡空域とは、右のような漠たる空域であつたということになる。(なお、隈及び市川が当日の訓練空域についてどのように認識していたかについては後述する。)
(3) 教官機及び訓練生機の接触約三分前からの飛行経路
イ 原告ら主張の飛行経路について
<証拠省略>の記述によれば、教官機は、接触約三分前から高度二万五五〇〇フイート、真対気速度約四四五ノツト(マツハ〇・七二)で別紙図面一の実線表示のとおり、岩手山付近で二分の一標準率旋回の右旋回を約一八〇度行い、約一五秒直進して次に左旋回に移り、左旋回を続行中、時計の六時半から七時(一九五度から二一〇度)位の方向に、訓練生機とそのすぐ後方に接近している全日空機を発見し、直ちに市川に対し接触回避の指示を与え、同時に訓練生機を誘導するつもりで自機を右に旋回させ、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けたとされ、訓練生機は、教官機の右側後方約二五度の線上約五五〇〇フイートの距離の上空に教官機との高度差約三〇〇〇フイートをとつて位置し、教官機の右旋回開始と同時に機動隊形の飛行要領に基づいて、速度を高度に換えて教官機の上空を通過し、約九〇度の旋回時点で旋回の外側に移行し、続いて高度を速度に換えて教官機に対し旋回開始前とほぼ同じ関係位置に戻り、教官機に追従し、次に左旋回が開始されるや、外側旋回の飛行要領に基づいて、高度を速度に換えながら教官機の後方を通過して旋回の内側に移行中、教官機の左側一五〇度ないし一六五度の方向約五〇〇〇フイート後方の位置に来た時、教官からの異常事態の通信が入り、市川は、その直後に自機の右側時計の四時から五時(一二〇度から一五〇度)位の方向至近距離に大きな物体を認め、とつさに回避操作をしたが間に合わなかつたとされ、右各飛行経路は、教官及び訓練生の口述、F-86Fジエツト戦闘機の飛行性能、機動隊形の飛行要領等から推定されたもので、別紙図面五の一、二(ただし、全日空機の飛行経路は除く)のとおりとなるものとされ、原告らの主張は、これに基づくものである。
そこで、事故調査報告書の右推定の合理性につき検討する。
教官機の本件接触約三分前からの飛行経路につき、<証拠省略>によれば、教官機は、岩手山付近に北進し、高度二万五五〇〇フイート、速度マツハ〇・七二で右旋回を開始し、一八〇度の右旋回を終了するまで、約二分を要したこと、その後、一〇秒ないし一五秒、または一五秒ないし二〇秒水平直線飛行を行つた後、左旋回を開始し、約三〇度ぐらい旋回して後方を振り返つたとき、訓練生機をおよそ時計の七時の方向、五〇〇〇ないし六〇〇〇フイート後方に見、そのすぐ後方に全日空機を発見したので、訓練生機に回避措置をとるよう指示を与え、自機を右へ旋回させたこと、本件事故後、隈は、検察庁で取調べをうけた際、一八〇度右旋回開始後の教官機と訓練生機の位置関係につき、別紙図面五の一とほぼ同様の図面を作成しているが、これは標準的機動隊形の飛行要領に基づいて記載したものであることを認めることができる。
一方、訓練生機の接触三分前からの飛行経路につき、<証拠省略>によれば、市川は、右旋回を行つていたときの教官機との位置関係についてはほとんど記憶がないこと、水平直線飛行についても約一〇秒ほど行つたと供述する一方、直進したことはないとも述べるなど記憶が定かでないものの、とにかく、教官機がいつどの方向に旋回するかもわからないので、教官機に全神経を費して追従していたこと、事故直前に左旋回を開始し、教官機の後方を通過して教官機の左側後方に出て下降していたところ、教官機からの通信を受け、同時ころ自機の右側四時ないし五時の方向至近距離に大きな物体(全日空機)を発見し、とつさにバンク角を深めて左上方へ回避しようとしたが間に合わず接触したことについては確かな記憶を残していることを認めることができる。
ところで、<証拠省略>によれば、隈は、事故当時までF-86Fジエツト戦闘機で約七三〇時間の飛行経験を有し、機動隊形訓練の経験も豊富であるし、訓練中も終始訓練生機の動きを監視していたことが認められるので、自衛隊機の飛行経路に関する右隈の供述部分は、相当信頼度が高いものといえる。
しかして、<証拠省略>によれば、本件事故後、事故調査委員会の委員後藤安二らは、松島基地に赴いた際、隈及び市川と面接して事情聴取したが、教官機及び訓練生機の飛行経路につき、同人らから別紙図面五の一のとおりの経路にほぼ間違いないとの確認を得たこと、また防衛庁側で解析した教官機及び訓練生機の飛行経路もほぼこれと合致したことが認められる。
しかし他方、<証拠省略>によれば、隈(教官機)は、右旋回を開始する際、岩手山を一二時半ないし一時の方向、盛岡を三時の方向に見て旋回したから、岩手山の南側を回つたことは間違いなく、北側を回つた記憶はない旨供述していることが認められ、また、<証拠省略>によれば、市川は、事故当日機動隊形訓練を開始したばかりであり、機動隊形訓練の飛行要領に従つて、教範どおり正確に飛行することはありえないことが認められるところ、隈の右岩手山の北側を回つたことはない旨の供述は本件事故直後の刑事事件捜査段階からの一貫した供述であり、市川の飛行経路については、前記認定のように接触直前はともかく、時間を遡れば記憶は確かでなく、また市川は右のとおり機動隊形の飛行要領に従つた飛行をする技量もそなえていなかつたことに徴すれば、前掲事故調査報告書の教官機及び訓練生機の接触前約三分間の飛行経路を全面的に合理性あるものとすることはできないが、隈の供述による右旋回を終えて、一〇秒ないし二〇秒(その中間値約一五秒)の水平直線飛行に移行した後の教官機、これに神経を集中して追従した訓練生機の各飛行経路は相当高度の信頼性があるものということができる。
ちなみに<証拠省略>も接触約三分前からの航跡は、接触直前数秒間はかなりの精度を持ち、それから時間がさかのぼるに従つて精度が低下することを否定してはいない。
ロ 被告主張の飛行経路について
<証拠省略>によれば、バツヂシステムにおけるカラー・データ・フイルムの解析により、教官機及び訓練生機の接触三分前から接触時までに飛行しうる範囲は、F-86Fジエツト戦闘機の性能等を考えると、別紙図面八の斜線内に含まれ、岩手山を大きく北に越えて飛行したとは考えられない(この部分は前記隈供述に符合する)とされ、被告の主張はこれに基づくものである。
そこで、海法鑑定書の右推定の合理性につき判断する。
<証拠省略>によれば、バツヂシステムとは、航空自衛隊の各基地のレーダー情報を利用して識別不明機を探し、味方機を誘導するための自動警戒管制組織であり、カラー・データ・フイルムとは、航空自衛隊の各基地のレーダー情報をコンピユーターに入れて、指揮官が見やすいように各航空機の高度、位置、速度等がブラウン管上に写し出されたものを、特殊カメラにより一分間隔に撮影したフイルムであること、本件事故当時三沢基地で得られたカラー・データ・フイルム一三二コマのうち、航跡解析に有用なものとして二八コマがあつたことが認められる。
ところで、バツヂシステムにおけるカラー・データ・フイルムの精度については、バツヂシステムの目的から、ある程度精度の高いものであることは窺えるが、他方、<証拠省略>によれば、事故調査委員会の井戸、後藤委員らが事故後に松島基地に赴いた際、防衛庁の係官から、バツヂシステムは、一度に一二〇〇海里という非常に広大な地域を写し出すものであるが、事故の前後の状況を写したフイルムはなく、またそれ以前のフイルムによつても自衛隊機の航跡を解析することはできなかつた旨の説明を受けたこと、レーダー情報をコンピユーターに入れてから、カラー・データ・フイルムに撮影するまでの過程において誤差が生じうることがそれぞれ認められるし、<証拠省略>によつても、自衛隊機については途中で航跡番号が変るなどして見わけがつけにくかつたうえ、地図上の誤差はプラスマイナス二海マイルもあるとされ、本件事故発生の三分以上も前の午後一時五九分ころのフイルムを最後として、本件事故前後のフイルムは得られなかつたことが認められ、従つて、これらフイルムによつて接触三分前からの自衛隊機の飛行経路をかなりの精度をもつて推定することは困難である。
なお、<証拠省略>によれば、別紙図面八のとおり、自衛隊機は、接触三分前ころから駒ケ岳の焼砂の真上付近を飛行していたことになるところ、後に説示する<証拠省略>には、これに沿う供述は全くなく、かえつて、右供述中には、自衛隊機は焼砂より相当東方の雫石町付近を飛行していた旨の供述もあり、別紙図面八の斜線部分の東側限界線の数マイルも西側を自衛隊機が飛行していたものとは認め難く、このことからも海法鑑定書の自衛隊機の飛行経路に関する鑑定の精度はそれほど高くないものといえる。
ハ 結論
以上の各資料を対比、総合して判断すると、教官機及び訓練生機が接触約三分前から、岩手山の北側を回つて、機動隊形訓練の飛行要領どおりの一八〇度の右旋回を行つたとする部分は必ずしも精度が高いとはいえないが、右旋回終了後、約一五秒間直進し、その後左旋回を約三〇度行つたとする部分は、相当精度が高く、信用するに足りるものと認められるところ、<証拠省略>によれば、教官機及び訓練生機が右旋回終了後直進を開始したのは、接触四四秒前であることが認められる。
以上の次第で、接触四四秒前以降接触時までの教官機及び訓練生機の飛行経路は、別紙図面五の三のとおりであつたと認めるのが相当である。
(なお、右自衛隊機の飛行経路の地図上へのあてはめについては、最終飛行地点である空中接触地点が本件における重要な争点となつているので、後記空中接触地点の認定の項にゆずる。)
(二) 本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路
(1) 当事者間に争いのない事実
全日空機が昭和四六年七月三〇日午後一時三三分ころ、札幌発東京行五八便として千歳飛行場を離陸し、ジエツトルートJ10Lに沿つて飛行し、函館NDB上空を通過したこと、その後水平定常飛行に移り、同日午後二時二分ころ雫石町付近上空に到達したこと、そのときの全日空機の高度は、管制承認された二万八〇〇〇フイートであり、真対気速度は約四八七ノツトであつたことはいずれも当事者間に争いがない。
(2) 全日空機のフライト・データ・レコーダの記録の解析に基づく推定について
<証拠省略>によれば、全日空機の管制承認された経路は、函館NDB通過後は、ジエツトルートJ11Lを飛行して松島NDBに至るものであり、全日空機は、一三時四六分函館NDB上空を高度二万二〇〇〇フイート(約六七〇〇メートル)で通過し、松島NDB上空を一四時一一分に通過する予定である旨札幌管制区管制所に位置通報を行い、ついで一三時五〇分に高度二万八〇〇〇フイートに到達した旨同所に通報を行つたこと、事故調査委員会は、全日空機の飛行経路は、右位置通報と同機に塔載されていたフライト・データ・レコーダの指示高度、指示対気速度、機首磁方位、垂直加速度等の記録値とを基礎として解析した結果、別紙図面一の経路となると推定したことが認められる。
そこで、事故調査報告書による右推定の合理性につき検討する。
<証拠省略>によれば、全日空機のフライト・データ・レコーダの高度、速度、方位については副操縦士用の計器と連動し、垂直加速度は重心位置近くにセンサーをつけて測定しており、多少の誤差はあつても記録値は信頼度が高いこと、しかし、フライト・データ・レコーダの記録値から直ちに航跡を導きうるものではなく、航空機の機種による誤差の修正や、風・温度等による速度・方向等の修正を考慮しなければならないものであることが認められる。
ところで、<証拠省略>によれば、大型機操縦者は、ある無線施設上で旋回する場合、まず無線施設上を通過した旨の位置通報を行うが、通常は無線施設上を通過して、ADF(自動方向探知機)の針が反転して後を指してから通報すること、また、位置通報後旋回を行う際に、通常、オーバーシユートする(次の予定のコースからはずれてしまう)ので、コースに乗るよう軌道修正のための操作を行うことが認められる。
<証拠省略>によれば、離陸後三〇分の午後二時二分三九秒ころを接触時刻と想定し、これから逆算すると、離陸時刻は午後一時三二分三九秒ころとなり、フライト・データ・レコーダの記録値によると、離陸後約一三分三〇秒ころ(午後一時四六分〇九秒ころ)機首磁方位の数値が減少しはじめ、左旋回を開始していることが認められるところ、このことは、午後一時四六分に全日空機が函館NDB上空を通過した旨の位置通報がなされたこととほぼ合致するものといえる。(被告は、全日空機が離陸後一三分後から一三分三〇秒までの三〇秒間、函館NDB上空で位置通報した後も機首磁方位を変えないで直進し、ジエツトルートJ11Lから西側へ大きくはみ出して飛行をしたと主張し、<証拠省略>には、これに沿うかのような供述部分もないではないが、<証拠省略>を仔細に検討すれば、右は、離陸時刻を午後一時三三分〇秒であることを前提にした供述であることが認められるので、右供述をもつて被告主張事実を認めることはできないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。)
もつとも、<証拠省略>中には、NDB局の直上にいくと、二万八〇〇〇フイート(二万二〇〇〇フイートの誤りと認める。)上空では三、四マイル幅のコーンと呼ばれる電波のない部分ができ、その部分を飛行機が通過するとADFの針がくるつと一八〇度ひつくり返る旨の供述記載部分があり、さらに<証拠省略>には、高度二万二〇〇〇フイートで針がひつくり返る半径は四、五マイルだと思う旨の証言もあるから、前記のように、位置通報がなされるのは、通常、ADFの針が反転して後方を指した後であることを合わせ考えれば、全日空機の位置通報が函館NDB直上を三、四マイル程度通り過ぎてから後であつたことも十分あり得ることといわねばならない。そうすると別紙図面一の経路よりも多少西にはみ出して旋回を行つた可能性があることも否定し難いところである。
また、<証拠省略>によれば、別紙図面一の全日空機の航跡は、フライト・データ・レコーダに基づき喜多規之が解析し、これを図示したものであること、フライト・データ・レコーダの記録値から航空機の航跡を解析するには当日の温度・風向・風速等の気象条件の確実なデータが存在することが必須の要素であること、右喜多は調査委員の後藤安二から四、五カ所のこれらデー夕をまとめて受けとつたものの、高度二万八〇〇〇フイートに達した後の右気象条件のデータは一つであつたことが認められ、これでは、精密な航跡の解析に必要十分なデータとは認め難く、たとえ一〇秒毎に飛行高度・速度・方向・距離等を計算した(<証拠省略>)としても、全日空機の正確な航跡を広大な地図上に再現し得るとはいい難く、いなむしろ極小単位の計算を累積するほど誤差は拡大されるというべきである。
なお、被告は、全日空機の機首磁方位が、フライト・データ・レコードによれば、函館NDB上空で左旋回終了後、ほぼ一八九度ないし一九〇度を示していたことと、全日空機が高度二万八〇〇〇フイートに達した後は、偏流による修正角度は四・五度で十分であつたことを合わせ考えれば、全日空機は、函館NDBから仙台VORへ向つて飛行していたと主張するが、飛行経路付近上空における気象条件についての正確なデータ(これを認めるに足る証拠はない。)がないかぎり、偏流修正角を何度にすべきかの判断をなしえないから、結局、右機首磁方位の記録値のみからは全日空機の飛行方向及び経路を推定することはできない。
(3) 西山中学校からの目撃供述に基づく推定について
<証拠省略>によれば、中川幸夫は、岩手県岩手郡雫石町大字長山第二一地割字猿子九八の一番地所在の西山中学校(これは、別紙図面二の長円形の中心から西へ約〇・五キロメートル、北へ約一・五キロメートルの地点にある。)校庭において、全日空機と訓練生機との接触直前の状況から接触後の墜落状況までを目撃していること、同人は、講堂の南側屋根の中央のとがつた部分を基準にして北西(約三一二度)の方向に二機が重なる状況を目撃し、また、講堂南側の技術室の屋根を基準にして西方に、接触後に発生した白煙のようなものを目撃していることが認められる。
右中川の供述は、目撃の際の対象物との距離はさておき、少なくとも目撃方向については十分信用することができるものであるところ、右によれば、全日空機は、接触時には別紙図面二の「D」の範囲内(そのうちでも、西山中学校から北西の方向寄りの部分)を飛行していたものと推認することができる。
なお、<証拠省略>によれば、フライト・データ・レコーダの解析に基づき推定された本件空中接触地点は、別紙図面二の長円形の中心点から東へ一・五キロメートル、北へ一・三キロメートルの地点であることが認められるが、西山中学校は前記のとおり右長円形の中心点から西へ約〇・五キロメートル、北へ約一・五キロメートルの地点であるから、結局、西山中学校の所在自体がフライト・データ・レコーダの解析に基づく推定接触地点よりも約二キロメートル西に寄つていることになる。
そして、西山中学校校庭における中川幸夫の前記目撃供述に基づく推定に照らしてみれば、少くとも北方、岩手山付近から雫石町付近に至るまでの全日空機の飛行経路は、フライト・データ・レコーダの解析に基づいた別紙図面一の飛行経路よりも二キロメートル以上西(別紙図面二の長円形よりも西)に寄つていたものと推認することができ、他にこれを覆すに足りる資料はない。
(4) カラー・データ・フイルムの解析に基づく推定について<証拠省略>によれば、前記バツヂシステムから得られたカラー・データ・フイルムの解析により、全日空機は、おおむね函館NDBと仙台VORを結ぶ線上を飛行していた(誤差はプラスマイナス二海マイル)というのであるが、すでに述べたように、カラー・データ・フイルムの精度から見て、全日空機の正確な航跡を推定しうるか否かは甚だ疑問であるし、<証拠省略>によれば、海法泰治は、全日空機の航跡を推定するに際し、本件事故発生と同時刻ころ、北海道、東北地方を飛行していてカラー・データ・フイルムに撮影されていた他の航空機の位置通報を参考資料として使用していることが認められるが、<証拠省略>によれば、別紙図面七の各航空機の航跡と右位置通報の時刻・場所とが一致しないとこもろあることが認められるし、また、後に詳しく検討する<証拠省略>によつても、海法鑑定書に示された全日空機の飛行経路(函館NDBと仙台VORを結ぶ線)付近に全日空機を目撃した旨の供述はなく(むしろ、雫石町上空あたりに目撃した旨の供述がある。)、結局、カラー・データ・フイルムの解析のみによつては、全日空機がおおむね函館NDBと仙台VORを結ぶ線上を飛行していたとする被告主張の事実を認めることはできない。
(5) 全日空機の計器類の指示に基づく推定について
<証拠省略>によれば、墜落時の全日空機のコース表示器(CI)のヘデイングカーソル(方位指針)の数値が、第一(機長席側)、第二(副操縦士席側)ともに二〇五度であつたことが認められる。
<証拠省略>によれば、ヘデイングカーソルの二〇五度という数値は、仙台VORから大子VORへの磁方位そのものであるから、全日空機は、函館NDBから仙台VORを経由して大子VORへ向うべく飛行していたとするのである。
しかし、<証拠省略>によれば、コースカーソル(コース指針)は、第一、第二とも一八〇度、コースカウンターは、第一が一七七度、第二が一八二度を示しており、また、ヘデイングカーソルの選択つまみは破損していたことが認められるところ、<証拠省略>によれば、コースカーソルとコースカウンターの数値は一致すべきものであること、全日空機が松島NDBへ向つて飛行する場合は、コースカーソルは函館から松島の磁方位である一八三度、また、仙台VORへ向つて飛行する場合は、コースカーソルは函館から仙台の磁方位である一八六度とすべきであることが認められるので、全日空機のコース表示器は、墜落時の衝撃等によつて指針が移動したものと考えざるをえない。従つて、ヘデイングカーソルの二〇五度という数値は、必ずしも意味があるものと断定することはできない。
<証拠省略>には、ヘデイングカーソルを仙台VORの手前から次のコースである大子VORへの磁方位(二〇五度)に予めセツトしておいて、仙台VOR局上で、オートパイロツトのヘデイングモードを選択すれば自動的に大子VORへのコースに乗れる旨の供述部分があり、また、<証拠省略>には、仙台VORの九〇マイルないし一〇〇マイル手前からヘデイングカーソルを次のコースの磁方位にセツトするパイロツトもいる旨の供述記載部分があるが、<証拠省略>によれば、無線施設局上で、機首磁方位を一八六度から二〇五度にするというような急激な方向転換は通常行わないこと(ちなみに、<証拠省略>によれば、全日空機は、函館NDB上空では、緩慢な左旋回を行つている。)、ヘデイングモードを選択して、無線施設から次のコースに乗るためには、次のコースの磁方位に偏流修正角を加えてヘデイングカーソルの数値を決めないと希望するコースを飛べないこと、また、通常の場合、九〇ないし一〇〇マイルも手前から次のコースの磁方位にセツトすることは行わないことが認められるので、<証拠省略>はにわかに措信することができない。
また、<証拠省略>には、航空自衛隊においては、航空機がある無線施設上空を通過後、軌道修正を行つて一定のコースに乗つた場合、オートパイロツトのヘデイングモードを選択しないときは、ヘデイングカーソルは、次の無線施設から先のコースの磁方位にセツトして、そのコースに乗るための目安として使用するとの供述部分があるが、<証拠省略>によれば、原告全日空においては、ヘデイングカーソルを右のように目安として使う方法は指導していないことが認められるし、<証拠省略>によれば、墜落時の全日空機の自動方向探知機(ADF)は、第一が宮古NDBを、第二が松島NDBを指示しており、超短波航行用受信機(VHFNAV)は、第一が仙台VORを、第二が松島タカンを指示していたことが認められるところ、全日空機が松島NDBに向つて飛ぶときも、NDB局の電波は誤差が大きいので精度の高いVOR局の電波を参考のために受信することがあるし、仮に全日空機が仙台に向つて飛行していたなら、ADFが仙台NDBを指示していないのはおかしいこと(以上は、<証拠省略>によりこれを認める。)、さらには前記のとおり、全日空機は、松島NDB上空を通過する予定である旨の位置通報をしていることとも合わせ考えると、<証拠省略>からただちに全日空機機長らが、仙台VORを経て大子VORへのコースに乗るための目安として、あらかじめヘツデイングカーソルをセツトしていたものとは認め難く、他にこれを認めるに足る証拠もない。
(6) 結論
以上を総合判断すると、全日空機の函館NDB上空通過後の飛行経路は別紙図面一のとおりの経路であるとは認め難く、さりとて別紙図面七(函館NDBと仙台VORを結ぶ線)のとおりの経路であるとも認め難いが、<証拠省略>をも合わせ考えると、全日空機は、少くとも岩手山付近から雫石町付近にかけて、別紙図面一の飛行経路より二キロメートル以上西へ寄つた経路(後記空中接触地点の項で詳しく再述する。)をほぼ真南に向つて飛行していたものと推認することができ、また、本件事故原因の解明には、右の限度での認定で必要にして十分である。
(三) 空中接触地点
(1) 全日空機垂直尾翼の上部方向舵のサーボ機器の落下点を基礎とした弾道計算による推定について
<証拠省略>によれば、事故調査委員会の委員であつた荒木浩は、全日空機垂直尾翼の上部方向舵のサーボ機器がその形状等からして軌跡計算を比較的正確に行うことができ、また、サーボ機器は、接触時(遅くとも接触時から四、五秒後までの間)に分離したので、初期条件はフライト・データ・レコーダの高度、速度、方位の記録値により設定することができ、空中接触地点を推定する資料としては最適であると判断し、サーボ機器の落下点を基礎にして弾道計算を行い、誤差も考慮したうえ、空中接触地点は、雫石駅の西方〇・四キロメートル、北へ三・三キロメートルの地点(北緯三九度四三分、東経一四〇度五八・四分)を中心とする東西一キロメートル、南北一・五キロメートルの長円(別紙図面二の長円)の上空高度二万八〇〇〇フイート内にあると推定したこと、そして、右長円の中心点は、ジエツトルートJ11Lから西へ四キロメートルの位置にあることが認められ、原告らの主張はこれに基づくものである。
ところで、落下物の弾道計算を行うには、分離時の高度、速度、方位等の初期条件の確実なデータが存在することが必須の前提であるが、<証拠省略>によれば、荒木浩は、本件接触状況につき、最初に訓練生機の右主翼付根付近と全日空機の左水平安定板先端部付近が接触し、続いて訓練生機が機首を右に振つて、その機首底部が全日空機垂直尾翼上部安定板と接触し、その際に垂直尾翼上部方向舵のサーボ機器が分離したものであるから、接触後遅くとも四、五秒以内には分離したものと推定し、接触後四秒間のフライト・データ・レコーダの記録値の平均値をもつて初期条件として設定したことが認められる。
しかしながら<証拠省略>によれば、荒木浩自身、サーボ機器の分離時期を接触後四、五秒以内であるとしたことにつき特別の根拠はないことを認めているし、また、サーボ機器が全日空機の垂直尾翼の内部桁材にボルトで固定されていた(<証拠省略>ことにかんがみれば、サーボ機器の分離時期が接触後四、五秒よりも遅い時期であつたことも十分推測しうるところである。
なお、<証拠省略>によれば、全日空機と訓練生機との接触直後に白煙が見え、その付近からピカピカ光る破片が落下していくのを目撃していることが認められ、全日空機の前記接触部位である左水平尾翼及び垂直尾翼の構造部品が接触の衝撃でその直後分離したこともありうることがうかがえるが、右事実からサーボ機器が接触直後に分離したものと認めるには必ずしも充分ではないし、また<証拠省略>によれば、サーボ機器は別紙図面二の<7>の位置に、垂直尾翼フイツテイングの一部は<6>の位置に発見されたほか、水平尾翼及び垂直尾翼の構造部品は、主としてサーボ機器よりも相当東方の<9>ないし<26>の東西に広がる一帯に散布していたことが認められ、垂直尾翼フイツテイングの一部のように、その形状からして落下軌跡の推定が困難とされるもの(<証拠省略>)が、右サーボ機器と余り遠からぬ地点に落下しているし、また、その他の各部品は形状が異なり不規則な落下軌跡をたどることが明らかであるから、右の散布状況からただちに各部分の分離時期を推定することは難しく、従つて、サーボ機器が接触直後に分離したものと認めることはできない。
そして、分離時期が遅くなれば、初期条件が変ることは明らかであり(<証拠省略>によれば、接触後のフライト・データ・レコーダの記録値は、時間が推移するにつれて大きく変動していることが認められる。)、初期条件が不明となれば、その後の弾道計算がいかに正確なものであつても、空中接触地点を正確に推定しうる資料とすることはできない。
なお、<証拠省略>には、別紙図面二の長円形は、西の限界を念頭において作図したもので、仮にサーボ機器の分離時期が遅くなつたとしても、空中接触地点は、右長円形より北へずれることはあつても、これより西へずれることはない旨の供述部分があるが、初期条件が変れば、高度、速度、方位等を確定しえないことにかんがみれば、荒木浩の右供述部分はたやすく信用することはできない。
そうすると、サーボ機器の分離時期が接触直後であつた可能性もないわけではないが、それよりも遅く分離したのではないかと推測される余地があるので、サーボ機器の弾道計算に基づく推定のみから、空中接触地点が別紙図面二の長円形の上空高度二万八〇〇〇フイートの空域であると認めることはできない。
(2) 全日空機のフライト・データ・レコーダの記録の解析による全日空機の飛行経路を基礎とした推定について
<証拠省略>によれば、喜多規之は、フライト・データ・レコーダの記録の解析に基づき、空中接触地点を別紙図面二の長円形の中心点から東へ一・五キロメートル、北へ一・三キロメートルの地点であると推定したこと、これは、右長円形の外側にはなるがほぼ長円形の範囲に合致することが認められるけれども、前記(二)(本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路)の(2)及び(3)において説示したとおり、フライト・データ・レコーダの解析により、全日空機の正確な航跡を広大な地図上に再現し得るとはいい難いし、岩手山付近から雫石町付近に至る間においては、全日空機は、喜多の推定した飛行経路よりも少なくとも二キロメートル以上西(別紙図面二の長円形よりもさらに西)に寄つていたものと推認することができるので、フライト・データ・レコーダの解析に基づく推定のみから、空中接触地点が右長円形の上空高度二万八〇〇〇フイートの空域であると認めることはできない。
(3) カラー・データ・フイルムの解析等に基づく推定について
<証拠省略>は、前示のとおり、カラー・データ・フイルムの解析、全日空機のコース表示器のヘデイング・カーソルの指示値から、全日空機は、函館NDBと仙台VORとを結ぶ線上を飛行していたと推定し、許容誤差を見込んだ接触地点の存在可能範囲は、別紙図面二の「A」の空域となるとしているが、前記(二)(本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路)の(4)及び(5)において説示したとおり、ヵラー・データ・フイルムの精度から見て、全日空機の正確な航跡を推定することができるか否かは甚だ疑問であるし、また、全日空機のコース表示器のヘデイング・カーソルの指示値等を考慮しても、全日空機が函館NDBから仙台VORに向けて飛行していたものと認めることができないことは前示のとおりであるから、右「A」の空域であるとの推定も信頼することはできない。
従つて、また、ヵラー・データ・フイルムの解析に基づく自衛隊機の性能上可能な飛行経路に関する海法鑑定書の推定もそれほど精度の高いものとはいえず、自衛隊機が別紙図面八の斜線部分の東側限界線(別紙図面二の「B」の線)の数マイルも西側を飛行していたものと認め難いことは、前記(1)(本件事故に至るまでの自衛隊機の飛行経路)の(3)ロにおいて詳述したとおりである。
(4) 目撃供述に基づく推定について
<証拠省略>によれば、東北管区警察局秋田通信部勤務の関山尚三ら六名は、本件事故当日、岩手山に登山するため、網張温泉に向つていたこと、午後二時ころ、網張温泉近くの岩手県岩手郡雫石町大字長山第五二地割岩手山七の九付近の標高約五一〇メートルの地点まで来たとき、ジエツト機の音を後方(南)に聞いた関山尚三は、南方の上空に白煙(飛行機雲のようなもの)が垂直に降下するのを見、さらにその飛行機雲が五、六秒降下した後、それが東方へ曲りはじめ、キラキラ光るものが飛び散つて薄黒い煙を吹き上げ、やがてその煙が松林の陰に見えなくなるまで降下していつたのを見たこと、そのとき、関山尚三は、目撃した方向を正確に記憶に留めるため、目撃方向と反対側(北)の三角山の頂上を基準物にとつて目撃方向を測定したこと、後日、岩手県警の職員の協力を得て目撃方向をコンパスで測定したところ、垂直に白煙が見えた方向は磁北一八〇度、キラキラ光るものが飛び散つた方向は磁北一七三ないし四度、薄黒い煙が見えなくなつた方向が磁北一六三ないし四度であり、真北との差は七度であること、右を地図上に描けば、最初に白煙の見えた方向は、別紙図面一二の<1>の方向となり、これは、別紙図面六における西限を画する太線と一致することが認められる。
また、<証拠省略>によれば、川和田秋男及び佐藤吉則も、右関山とほぼ同一の接触後の状況を目撃したことが認められる。
そして、<証拠省略>によれば、隈は、全日空機を発見し、直ちに回避操作をするよう指示し、自機を右旋回し、すぐに左へ切り返して訓練生機の方を見ると、訓練生機が煙を出さずに落下していくのが見え、全日空機の方を見ると、主翼の付根部分から白煙を出しながら機首を二〇度位下方に向けて教官機の上方を通過していくのを見たことが認められるので、関山らの目撃した前記白煙は、接触直後に全日空機の機体の一部から発せられたものと認めることができる。
なお、<証拠省略>によれば、全日空機の分解した機体の主要部分は、別紙図面の<27>ないし<38>の位置に散布していたこと、その散布場所は、前記関山らの目撃した薄黒い煙が見えなくなつた方向とほぼ一致することが認められ、関山らの目撃供述の信憑性が高いことがうかがわれる。
次に、<証拠省略>によれば、上中屋敷正人は、本件事故当日、雫石町町道西駒線の道路脇において、「びしん」というひびきのある音を聞き、直ちに道路上に出て上空を見たところ、ほぼ真上の空から南方へのびる飛行機雲のような白い線を見たこと、その後、その白い線は薄黒い煙の線となつて降下し、磁北約一五〇ないし一六五度の方向の杉の木にかくれて見えなくなつたことが認められる。
また、<証拠省略>によれば、角館町立中川小学校教諭橋本裕臣らは、本件事故当日、小学五、六年生二九名位を引率して駒ケ岳の焼砂に登つていたこと、午後二時すぎ、橋本裕臣は、岩手山の東側方面を南進する全日空機を目撃し、その直後、訓練生機と重なるようになつて白煙があがるのを見たこと、その方向は、ほぼ別紙図面一二の<2>の方向であつたことが認められる。(もつとも、これら目撃供述においては、目撃の方向はともかく、対象物との距離感はさほど信用することはできないから、全日空機が岩手山の東側を飛んでいたことまでは認めることはできない。)
<証拠省略>によれば、角館公民館の主事であつた今野利明は、前記駒ケ岳の焼砂から真東の方向に花火でもあげたような白い煙を目撃し、その付近からキラキラする細かい破片のようなものが南東の雫石町の方へ落下していくのを見た後、白煙の付近からいくらか黒味がかつた煙が雫石町方面になびくように落ちていくのを目撃したこと、最初に煙を見た方向は、ほぼ別紙図面一二の<3>の方向であつたことが認められる。
そして、西山中学校校庭における目撃者中川幸夫の供述によれば、全日空機が接触時に別紙図面二の「D」の範囲(そのうちでも西山中学校から北西の方向寄りの部分)を飛行していたことになることは、前記(二)(本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路)の(3)において説示したとおりであり、最初に二機が重なるように見えた方向は、ほぼ別紙図面一二の<4>の方向となることが認められる。
もつとも、<証拠省略>によれば、中川幸夫は、最初講堂の屋根の上の方に飛行機を発見したとき、それは岩手山の方向から来て雫石町の街の方に向つているように感じたというのであるから、前記のとおり、全日空機が西山中学校よりも北西ないし西の空域を飛行していたことは確かであるが、それほど遠方の空域を飛行していたのではないことを推測することができる。
(なお、<証拠省略>によれば、昭和五〇年九月二三日、防衛庁の職員らがヘリコプターを飛行させ、中川幸夫に西山中学校校庭からこれを目撃させて、本件接触地点を推測し、その実験結果を作図したところ、推定接触地点は、別紙図面二の「E」の範囲ないしその北側の位置となつたことが認められるが、目撃供述にあつては、目撃方向については信頼できても、対象物の高度や目撃地との距離については正確な供述は望めないし、右のように事故後四年以上も経過した後に、全日空機とは機種の全く異なるヘリコプターを飛行させて目撃状況を再現しうるとはとうてい考えられないから、右実験結果から空中接触地点を推測することは失当である。)
<証拠省略>によれば、西山中学校近くの農協ビル建築工事現場にいた三本正道は、本件事故当日午後二時すぎ、「ドン」という音を聞いた後、白煙をはいた飛行機(全日空機)が小松付近上空(これは、別紙図面六の長円形の中心点より少し南西の位置となる。)を飛んでいるのを見たこと、全日空機は、だんだん高度を下げ、雫石町上空あたりでキラキラする物体をたくさん落しながら左の方(東)に曲つて見えなくなるのを目撃したこと、高前田付近(これは別紙図面六の長円形の外側の<6>の位置となる。)上空に二、三回転しながら落ちてくる訓練生機及びパラシユートを目撃したこと、松嶺誠仙は、前記農協ビル建築工事現場において、真上まりも少し西側の上空に大きな飛行機(全日空機)を見たこと、全日空機は、それまでは白い煙をはいていたが、真上あたりから南方へ黒い煙(この点は前記三本の供述と矛盾する。)をはいて飛んでいくのを見たこと、松嶺誠仙、黒井武雄、前田豊一も三本正道と同様、高前田付近上空に訓練生機とパラシユートを目撃したことが認められる。
また、<証拠省略>によれば、佐藤千代志は、雫石駅の西北にある雫石土地改良事業所において、駒ケ岳が噴火するような爆発音を聞いた後、両翼のついた飛行機が事業所の上を南々東に向つて進んでいくのを目撃したこと、大久保咲枝は、雫石駅北側の雫石町牧場玄関前において、大きな爆発音を聞いた後、二〇センチくらいに見える飛行機が東南の方向に飛んでいくのを目撃し、その後、真上付近にきりもみ状態で落ちてくるジエツト機と落下傘を目撃したことが認められる。
そして、<証拠省略>によれば、本件事故当時雫石駅駅長であつた小野寺国雄は、午後二時四分ころ、駒ヶ岳の爆発音のような強く高い音を聞き、駅のホームに出て空を見上げたところ、北の空に黒い煙を見たこと、一旦駅長室に入つた後、再びホームに出て、西の空に自衛隊機が北から南へ国鉄の線路を越えて落下していくのを目撃したことが認められる。
なお、<証拠省略>の第五図によれば、全日空機のフライト・データ・レコーダは接触後二五、六秒まで正常に作動しており、全日空機の速度の数値は、接触時以降マツハ〇・七九(時速九〇二キロメートル)から〇・九の間を推移しており、従つて、右計器が正常に作動している間だけでも相当長距離を飛行していることが認められるところ、前記のとおり、佐藤千代志、大久保咲枝らが雫石町市街地において、大きな爆発音を聞いた後、全日空機が東南ないし南南東方向に降下していくのを目撃していることと合わせ考えれば、全日空機が訓練生機と接触したのは、別紙図面二の長円形よりも少くとも北方であつたものと推認するのが相当である。
他方、<証拠省略>によれば、隈は、本件事故発生直後の午後二時二分四八秒から二時四七分四秒まで松島飛行場管制所と交信し、二時二三分五七秒ころに事故発生の場所につき、盛岡の西一〇マイルあたりで高度二万七〇〇〇ないし八〇〇〇フイートぐらいのところである旨通信しており、盛岡の西方一〇マイル(これは雫石町付近となる。)が接触地点であるかの如くであるが、<証拠省略>を仔細に検討すると、隈は、二時三分三九秒に、「盛岡の西の一〇マイルの山中あたりがライラツク・チヤーリー2(訓練生機)……それから盛岡の南の方にポジシヨンはよくわかりませんでしたが、727(全日空機)だと思いますが、落ちました。」と通信していることが認められ、これと前記通信とを対比して考えると、隈は、訓練生機及び全日空機が落下していつた山中あたりの上空をもつて事故発生の場所と推測して前記通信を行つたものと認めることができる。
そして、<証拠省略>によれば、事故当時、雫石町付近においては、高度上空では西ないし北西の風、地上付近では南西の風が吹いていたことが認められ、訓練生機及び全日空機が接触後は操縦の自由がきかず風に流されて落下していくことも十分に考えられるところであるから、盛岡の西方一〇マイルという前記通信のみから、ただちに接触地点を盛岡の西方一〇マイルと推定することもできない。
また、<証拠省略>によれば、訓練生市川の落下傘は、雫石駅から東南約三〇〇メートルの別紙図面二の<5>の位置に着地したことが認められ、<証拠省略>中には、右落下傘の規格の特性と風のデータからその降下軌跡を計算すれば、落下傘は別紙図面二の点線のコースを降下したものと推定されるとの記載があり、<証拠省略>中には、市川の供述から判断して、落下傘は、相当高空で開傘したと思われるとの供述記載部分がある。
なるほど、落下傘は風に流されて降下するものであることは肯けるところであるが、その開傘時期を確定しうる明確な資料はないし、落下傘の降下軌跡についても<証拠省略>に照らしてたやすく採用することができないから、右落下傘の降下軌跡を別紙図面二の点線のコースのとおりであると推定することはできない。
もつとも、右各目撃供述と前記のとおり北西ないし南西の風が吹いていたことも合わせ考えれば、訓練生機の落下傘は少なくとも別紙図面二の長円形よりも西方の空域から落下してきたものと推認するのが相当である。
そして、空中接触地点を推定するうえで有用な接触状況に関する目撃供述は他に証拠上これを認め得ない。
以上の各目撃供述を総合して判断すると、空中接触地点を推定するのに有用で、かつ信用のできる接触直前から直後にかけての目撃供述としては、網張温泉近くの関山らの供述、町道西駒線道路上の上中屋敷の供述、駒ケ岳焼砂の橋本及び今野の供述、そして西山中学校の中川の供述があるのみであり、これらの各目撃供述を総合して判断すると、全日空機と訓練生機の空中接触地点は、別紙図面一二の<1><2><3><4>の線の重なる部分即ち、別紙図面六の西限を画する太線と北限を画する太線の交差する角の地点付近で、これを含み、かつ、これよりも北西(中川供述)の部分(別紙図面一二の地図上の<1><2><3><4>の線の重なる西限と記載されている地域)付近の上空高度二万八〇〇〇フイートの空域であると認めるのが相当である。
なお、右各供述とその他の前記各目撃供述を総合して判断すると、全日空機は、接触後、上中屋敷の目撃地点(別紙図面六の<3>)の真上付近から西山中学校及び農協ビル建築工事現場の西側付近の空域を通過し、別紙図面二の長円形の西南端付近を通過後雫石町雫石駅北部付近の空域で大きな爆発音を発し、その機体の主要部分は雫石駅付近上空を東南ないし南々東の方向に落下していつたものと推測され、他方、訓練生機は、接触後、高前田付近(別紙図面六の<6>)上空を通過して、雫石駅の西方に落下していつたものと推測することができる。
(5) 結論
以上、<証拠省略>によつて認められる全日空機及び訓練生機の各機体の破片の散乱状況、落下傘の降下地点、風向、フライト・データ・レコーダの記録等を彼此対比して判断すれば、別紙図面二の長円形の中心から西に約二キロメートル(ジエツトルートJ11Lから西に約六キロメートル)、北に約三キロメートルの西根附近の上空高度二方八〇〇〇フイートの空域が空中接触地点であると認めるのが相当である。
(四) 本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路
(1) 「自白の撤回」についての原告らの異議について
原告らは、教官機及び訓練生機と全日空機との本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路は、別紙図面五の一、二のとおりであると主張し、被告は、当初、原告らの右主張事実を認める旨の陳述をなしたが、その後右の相対飛行経路は真実に反し、かつ右陳述は錯誤に基づいてなしたものであると主張し、右陳述を撤回した。そして、被告は、接触約三分前から接触前一〇秒までの相対飛行経路は明らかでないが、接触一〇秒前からの相対飛行経路は、別紙図面九のとおりであると主張する。
原告らは、被告の右陳述の撤回は自白の撤回に当るので異議があると述べるのでその許否について検討する。
原告らは、本件接触事故が被告の自衛隊員の航空機の航行上の過失によるものであるとして被告の賠償責任を求めているのであるから、原告主張の接触前の相対飛行経路が、いわゆる主要事実である自衛隊員の過失行為に当るか、過失行為の判断の前提たる間接事実に過ぎないかによつて、被告の右陳述の撤回の許否が決せられるものと考える。
そして、本件において、自衛隊機及び全日空機が接触約三分前から接触時まで、どのような相対飛行経路を飛行したかということは、確かに過失行為の存否の判断の前提となる重要な事実ではあるが、右相対飛行経路のみで隈及び市川の過失行為を決することができるものではない。
すなわち、隈及び市川の行為が過失行為に該当するか否かの判断は、後記のとおり、自衛隊機と全日空機との相対飛行経路を前提とし、隈及び市川の全日空機の視認可能性、衝突予見及び回避可能性を検討し、隈及び市川が見張り義務及び衝突回避義務を尽くしたか否かを判断することによつてはじめて可能となるものである。
従つて、自衛隊機と全日空機の接触三分前から接触時までの相対飛行経路のごときは、重要な間接事実ではあるが、主要事実である過失行為そのものとはいえない。そうだとすれば、被告のなした前記陳述は自白に当らず、その陳述に拘束力はないから、被告がこれを撤回することは許されるものと言わねばならない。
そこで、以下、証拠により判断する。
(2) 原告ら主張の相対飛行経路及びその交差角について
<証拠省略>によれば、事故調査委員会は、接触約三分前の相対飛行経路を別紙図面五の一、二のとおり作成するに際し、接触約四秒前までは、接触四秒前からの全日空機及び訓練生機の関係位置に基づき、また、それ以前の部分については、全日空機、教官機及び訓練生機の飛行状態に関するデータを用いて推定したこと、接触四秒前からの全日空機及び訓練生機の関係位置については、全日空機及び訓練生機の接触部位、接触時の姿勢、方向、市川の全日空機視認状況等に基づいて推定したこと、全日空機と訓練生機の接触の状況は、後記認定の損壊機材の調査結果から、最初、訓練生機の右主翼フラツプステーシヨン25付近後縁と全日空機の水平尾翼安定板ステーシヨン230近前縁とが接触し、次いで、訓練生機は機首を右に振り、機首底部が全日空機の垂直尾翼上部安定板ステーシヨン230付近の左側面と接触したものと推定したこと、全日空機の水平尾翼先端部に残された擦傷の条痕により交差角を五度ないし一〇度と推定し、その中間値をとつて別紙図面五の一、二は、交差角を七度として作図したものであることが認められる。
そこで、事故調査報告書の右推定の合理性について検討してみることとする。
<証拠省略>によれば、全日空機及び訓練生機の損壊状態は、つぎのとおりであることを認めることができる。
イ 全日空機は、左水平尾翼、ステーシヨン214付近の上面外板上に赤色の線が機軸と四〇度ないし四三度の角度で前桁から後へ内側に向つて約六〇センチメートルの長さでついており、安定板ステーシヨン211付近の下面外板上に赤色の線が機軸と約四五度の角度で前桁後方四センチメートルのところから後へ内側に向つて六センチメートルにわたつてついており、また、安定板ステーシヨン206付近の前縁に赤色塗膜状の付着物があり、安定板ステーシヨン189から214付近の上面外板上に機軸と約四〇度ないし四五度の角度で前記赤線と同方向の多くの擦傷があつた(なお、訓練生機のフラツプ後縁上面には、内側から長さ七〇センチメートル、幅約六・五センチメートルにわたつて赤色の塗装がなされていた。)。安定板ステーシヨン190付近で破断分離した翼端側の破片に、訓練生機の右主翼フラツプに使用されていたハネカム材と同種の細片が付着しており、安定板ステーシヨン100付近の後桁フランジは後方に曲つていた。安定板ステーシヨン100から180付近の構造は小破片となつており、これら小破片の大半には多くの接触痕があつた。右水平尾翼には接触痕はなく、ほぼ完全な形で左水平尾翼翼根とともに分離していた。そして、垂直尾翼後桁の安定板ステーシヨン230付近にある上部方向舵作動筒取付枠等の左側に接触痕があり、後桁より後方の安定板ステーシヨン225より上の部分が破壊しており、その破壊した外板小破片に訓練生機の機首と同色の赤色塗膜状の付着物があり、右前桁の胴体との取付部付近の破断部は、垂直尾翼が右へ倒れる方向に曲つていた。また、安定板ステーシヨン100付近の右側ストリンガにも同方向の局部挫屈があつた。水平尾翼との取付構造は、,左水平尾翼に後曲げの力をかけた方向に著しく変形していた。その他、左主翼、右主翼、胴体には接触したと認められる痕跡はなく、発動機には三基とも接触及び異常燃焼と認められる痕跡はなかつた。
ロ 訓練生機は、右主翼が胴体中心線からほぼ一・〇メートルの位置及び一・三メートルの位置で破断分離し、この付近の桁、外板等が破壊レており、胴体中心線から一・四メートル付近の構造は、後から前に変形するとともに下から上に変形していた。また、胴体中心線から約一・四メートルの右主翼取付構造凹部には、訓練生機の右主脚カバーならびに全日空機の左水平尾翼の後桁前部外板、後桁上部、後桁後部外板、後縁材上部、昇降舵桁上部及び昇降舵外板の各細片が奥から順に入つており、後縁材上部の細片は、昇降舵ステーシヨン136から147付近に対応した部位のものであつた。右主翼下の燃料タンク及び左主翼には、接触したと認められる痕跡はなかつた。胴体は、左主翼及び尾翼とほぼ一体となつていたが、機首特に底部の破損が著しく、機首底部の着陸灯、機首パネルの破片等に全日空機の垂直尾翼に使用されていた青色塗膜と同色の付着物があり、前脚は、その取付部が破壊し、胴体から分離していた。その他、尾翼には接触したと認められる痕跡はなく、発動機には接触及び異常燃焼したと認められる痕跡はなかつた。
また、<証拠省略>によれば、市川は、左旋回を開始した際、教官機の外側から内側へ入るためバンク角を六〇度位に深め、高度を下げながら教官機との横幅を狭めていき、教官機の後方を横切つて教官機の左側へ出たこと、下降しながら速度をマツハ〇・七二から徐々に上げていき、自機が最も低い位置に来たときマツハ〇・七四位としたこと、その時点でバンク角は二〇度にゆるめていたこと、その直後右後方ほぼ五時(一五〇度)の方向に全日空機を発見したこと、市川は、左旋回して上昇しようと考えて、バンク角を四〇度ないし六〇度に深めて機首を上げたところ、後方からつきあげられるような衝撃を受けたことが認められる。
そうすると、全日空機と訓練生機は、最初、訓練生機の右主翼フラツプステーシヨン25付近後縁と全日空機の水平尾翼安定板ステーシヨン200付近前縁とが接触し、その後、訓練生機の機首底部が全日空機の垂直尾翼上部安定板ステーシヨン230付近の左側面と接触したとする事故調査報告書の推定は、合理性があると認めることができる。
そして、<証拠省略>によれば、接触時における接触両機の進行方向の交差角は、傷痕を基にして解析するのが一般であり、ICAO(国際民間航空条約)の事故調査マニアルも同様の見解をとつていること、事故調査委員会の荒木委員は、機材を見分して前記全日空機水平尾翼に多数見られた機軸と四〇度ないし四五度をなす擦傷条痕(訓練生機のフラツプの赤色塗料によるものも含む。)を確認し、これと接触直前における全日空機及び訓練生機の飛行状況とから、ベクトル計算によつて両機の進行方向のなす交差角を五度ないし一〇度(そのうちでも五度に近い方)と推定したことが認められ、右は、機体の損壊状況という客観的資料に基づき、ベクトル計算により科学的推定を行つたものであるから、その信憑性は高いものと認めることができる。従つて、前記市川の視認状況をも考慮したうえ、全日空機と訓練生機の進向方行の交差角を七度として作図された別紙図面五の二のうち、接触四秒前以降の相対飛行経路は極めて精度が高いものということができる。
(なお、<証拠省略>が信用できないことは後述する。)
次に、<証拠省略>によれば、接触四秒前以前の相対飛行経路については、全日空機は、真対気速度四八七ノツトの直線飛行を行い、教官機は、真対気速度四四五ノツト、接触四四秒前から一五秒間は直線飛行、二九秒前からは三〇度バンク水平施回飛行を行い、訓練生機は、真対気速度四三三ノツトないし四五七ノツト(平均四四五ノツト)で機動隊形の飛行要領に従い教官機に追従したものとして別紙図面五の一、二のように作図されているが、教官機及び訓練生機が接触四四秒前からほぼ別紙図面五の一、二のような飛行経路をとつていたこと及び全日空機が真対気速度四八七ノツトの直線飛行を行つていたことは、すでに認定したところであり、前記判示のとおり、接触四秒前以降の相対飛行経路が極めて精度が高いものであることにかんがみれば、接触直前数秒間から時間がさかのぼるに従つて精度がやや低下する<証拠省略>ものとはいえ、接触四四秒前以降接触時までの相対飛行経路が別紙図面五の一、二のとおりであるとの推定は、極めて信頼性の高い合理的なものと認めることができる。
(3) 被告主張の相対飛行経路及びその交差角について
<証拠省略>によれば、鷹尾洋保及び黒田勲は、接触直前における市川の全日空機視認状況(別紙図面一〇、市川の昭和四六年八月一〇日付検察官に対する供述調書の添付図面に同じ。)により、接触一〇秒前から接触時までの全日空機と訓練生機の相対飛行経路は、別紙図面九のとおりであり、市川の全日空機視認時における両機の飛行経路のなす角度は一・七四度ないし〇・八一度であると推定していることが認められる。
被告は、市川を驚がくの極に陥れたであろう接触直前の視認の記憶は、距離、方向、角度等の数値的記憶と異なり、長時間にわたり脳裡にこびりつくように細部にわたつて残つているものであるから、別紙図面一〇の視認状況は信頼性が高く、接触直前の両機の関係位置及びこれに基づく相対飛行経路を推定する上で最も重要かつ唯一の手がかりとなると主張する。
なるほど、<証拠省略>によれば、市川は、昭和四六年八月一〇日、検察官に対し、最初民間機を発見したとき見えた部分は、機首の部分と、機体のほぼ中央部と左主翼つけ根部分と、右主翼先端部であり、他の部分は、自機の主翼と胴体の陰にかくれて見えなかつたと供述し、別紙図面一〇と同一の図面を作成していることが認められるけれども、他方、<証拠省略>によれば、市川は、昭和四六年八月三日、検察官に対し、民間機を発見したとき視界に入つたのは、民間機の左翼半分及び胴体の後半分を除いた部分であつた旨の供述をしているし、証人黒田勲の証言によれば、市川は、事故直後である昭和四六年七月三一日付司法警察員に対する供述調書の中で、全日空機視認状況図として、全日空機のコツクピツトと胴体の前半分を書き、訓練生機が全日空機の左翼の上に乗つているような図を書いていることが認められ、これは同年八月三日の検察官に対する右供述とも一致するものであるから、市川の同年八月一〇日の前記供述及び全日空機視認図(別紙図面一〇)を基礎として接触直前の両機の関係位置及び接触一〇秒前から接触時までの相対飛行経路を推定することは、極めて不確実な前提事実を基礎として推定をなすものというべく、たとえ、その後いかに精密な計算に基づく科学的な算定方法を用いたとしても、正確な相対飛行経路を推定することはできないと言わざるをえない。
また、<証拠省略>によれば、鷹尾及び黒田は、市川機の全日空機視認時の飛行条件につき、市川機のバンク角を〇ないし二〇度、全日空機の進行方行となす角を〇ないし二〇度と推定したうえ、前記市川の全日航機視認図(別紙図面一〇)を基礎にして検討を加え、市川機のバンク角は〇ないし三度、視認時の両機の飛行経路のなす角度は〇・八一度ないし一・七四度と推定していることが認められるが、<証拠省略>の訓練生機のバンク角を二〇度位にゆるめた直後に民間機を発見し、そのときの民間機と自機の機軸の角度は一〇度ないし二〇度の間と思うとの市川の供述及び証人黒田勲の、訓練生機の飛行条件についてはある程度の幅を持たせて計算しているが、市川の全日空機視認図(別紙図面一〇)と合わなくなつてくると、それに合うように修正したとの供述に照らしてみれば、鷹尾・黒田鑑定書の前記交差角に関する推定は、市川の供述と矛盾することを承認したうえでの推定であると思われる。
さらに、<証拠省略>中には、全日空機左水平尾翼破壊状況から、接触前の相対飛行経路を推定することは、接触及び破壊進行状況が複雑であるので困難であり、左水平尾翼にあつたとされる赤色の線及び擦傷が訓練生機のフラツプによつて付けられたと考えるのは困難であるから、赤色の線及び擦傷の条痕から、回避操作前の両機の交差角を求めることは誤りである旨の記載があり、証人鷹尾洋保の証言中にも、右に沿う供述部分があるが、前記(2)(原告ら主張の相対飛行経路及びその交差角について)で認定したように、全日空機左水平尾翼安定板ステーシヨン190付近で破断分離した翼端側の破片に、訓練生機の右主翼フラツプに使用されていたハネカム材と同種の細片が付着していたこと、事故調査委員会の荒木委員は、現に機材を検分して訓練生機のフラツプの赤色塗料によるものを含む全日空機水平尾翼の擦傷条痕を確認していること、また、右以外に赤い筋をつけるものが考えられないこと(証人荒木浩の証言)等に照らせば、前記鷹尾・黒田鑑定書の記載及び証人鷹尾洋保の供述部分はにわかに採用することができない。
また、前記のとおり、鷹尾・黒田鑑定書は、市川の接触直前における全日空機視認図を推定の唯一の手がかりとし、機材の損壊状態という客観的資料を全く考慮せず、その結果、全日空機と訓練生機の接触直前における飛行経路の交差角を殆ど平行に近い〇・八一度ないし一・七四度と推定したものであるが、それでは訓練生機の機首底部が全日空機の垂直尾翼に接触した事実を説明することができず(<証拠省略>)、この点からも鷹尾・黒田鑑定書の右推定に合理性があるものとはとうてい認めることができない。
(4) 結論
そうすると、教官機及び訓練生機と全日空機との接触四四秒前から接触時までの相対飛行経路は、別紙図面五の三のとおりであると認めるのが相当というべきである。
そして、<証拠省略>の接触点を<証拠省略>の第七図上の前記認定の接触地点に重ねてみる(同図と<証拠省略>との縮尺は同じ。)と、自衛隊機は、接触四四秒前以降接触に至るまでの間、終始松島派遣隊の定めた後記説示の飛行制限空域内(ジエツトルートJ11L及びその近傍)を飛行していたものと認めることができる。
(五) 接触時刻
(1) 全日空機操縦者のブームマイクの送信ボタンの空押しにより生じた雑音記録の解析に基づく推定について
<証拠省略>によれば、札幌管制区管制所(受信アンテナ及び受信装置は三沢市にある。)、新潟飛行場管制所及び松島飛行場管制所の一三五・九メガヘルツの管制交信テープを再生すると、本件事故当日の午後二時二分三二秒すぎに〇・三秒間の雑音と同二分三六・五秒から約八秒間にわたる雑音が記録されているが、札幌管制区管制所における管制交信テープについてのみ、同二分三七・九秒から三八・五秒までの〇・六秒間と同二分四二・五秒から四四・六秒までの二・一秒間の雑音の中断があること、全日空機機長席のブームマイクの送信ボタンは、操縦輪の左先端スタビライザー・トリムスイツチの裏側にあり、操縦輪に手をかけた正常な握り位置で、入指し指の腹の部分が触れる位置にあり、指に力を加えただけで送信ボタンは容易にオンの状態になり、搬送波が送信されること、航空機操縦者は、通常送信にあたつて送信ボタンを空押しすると他の交信が著しく阻害されるため、平常の状況で送信ボタンを意識的に空押しをすることはないことが認められ、また、<証拠省略>によつても、右と同様の交信テープの雑音が記録されていることが認められる。
<証拠省略>によれば、全日空機からの送信に対する受信条件は、同機が正常に飛行している限り、札幌管制区管制所が他の二管制所に比べて特に劣つているとは認められないから、札幌管制区管制所の受信記録にのみ雑音の中断が生じたのは、何らかの物理的理由によるものであること、運輸省の電子航法研究所における全日空機送信アンテナの指向特性に関する実験の結果、全日空機は、空中接触地点付近では、機体の姿勢が正常の姿勢から外れてある程度変位すると、三沢市にある受信アンテナ方向の電界強度が著しく変化する可能性があるような微妙な位置及び方位にあることが判明したことが認められる。
<証拠省略>によれば、事故調査委員会は、札幌管制区管制所の雑音の中断に関し、二分四二・五秒から四四・六秒までのものは、全日空機の接触後に起つた機体の姿勢の変化によつて生じたものと推定する一方、二分三七・九秒から三八・五秒までのものについては、その中断時間が〇・六秒という短時間のものであることから、それが機体の姿勢の変化に基づくものとは考えられないとし、全日空機の送信アンテナと三沢市にある受信アンテナとを結ぶ線上またはその近傍に、かつ送信アンテナのごく近くに、一瞬他の物体(訓練生機)が介在することによつて生じた電波の遮蔽・干渉の結果であると推定していることが認められ、<証拠省略>中には〇・六秒という短時間の雑音の中断は、機体の姿勢の変化に基づくものとは考えられない旨、全日空機と訓練生機との接触は、右雑音の中断の時間帯(二分三七・九秒から三八・五秒の間)に発生したと考えられる旨の供述部分がある。
しかしながら、<証拠省略>によれば、前記三管制所の交信テープには、前記約八秒間の雑音に続いて、午後二時二分四七・五秒ころから五〇・九秒ころにかけて「エマージエンシー」と思われる全日空機からの音声記録があり、五一・九秒ころから意味不明の音声記録があり、最後は五三・四ないし五三・七秒ころ「ヒヤー」というような音が記録されていること、右四七・五秒ころから五三・七秒ころの音声記録につき、札幌管制区管制所をはじめ他の管制所のテープにも約〇・三秒から一・三秒くらいの音声の欠損部分が存在すること、これは接触後の機体の姿勢の変化によるものと推測されることが認められ、前記〇・六秒の雑音の中断も全日空機の機体の姿勢の変化によるものである可能性を否定することはできない。
また、<証拠省略>によれば、事故調査委員会は、前記認定の二分三二秒すぎの〇・三秒の雑音に関し、その時点において、全日空機機長は、自機の間近に訓練生機を視認し、またはそれ以前から視認していた訓練生機が予測に反して急に接近してきたため、操縦輪を強く保持した際に生じた雑音であると推定しているが、他方、全日空機は、フライト・データ・レコーダの記録からみて、水平定常飛行を行つており、接触直前まで回避操作が行われなかつたと認められること(事故調査報告書)及び後に認定するように、本件の場合、仮に全日空機機長が接触約七秒前に訓練生機を視認しておれば(回避可能であつたか否かはさておき)、何らかの回避操作を行つたであろうことに照らしてみれば、全日空機機長が接触約七秒前にはすでに訓練生機を視認していたとする事故調査委員会の推定は、さほど合理性があるものとは認め難い。
そして、前記のとおり、航空機操縦者は、平常の状況で送信ボタンを意識的に空押しして雑音を生じさせることはしないから、前記二分三二秒すぎの〇・三秒間の雑音は、接触時の衝撃で思わず操縦輪を握つた際に生じたものであり、二分三六・五秒から約八秒間の雑音は、負の加速度が増大する環境下で、全日空機操縦者が機体の姿勢を回復しようとして操縦輪を握りつづけた際に生じたものと解する余地も十分あるといわねばならない。
(2) 全日空機機長の最後の絶叫に基づく瀞定について
<証拠省略>によれば、事故調査委員会は、「全日空機機長の通話は一四時二分五三・六秒に終つているが通話の最後は絶叫で、またこの時点で全日空機機長の手が操縦輪から離れたと考えられる。この通話が行われていたのは、次第に増大する大きな負の垂直加速度の環境下であり、フライト・データ・レコーダに記録されていた垂直加速度の時間的推移からみて、操縦輪の保持及び通話が可能なのは、この事故の場合、接触後一〇数秒が限度と推定される。」とし、接触時刻は、二時二分三七秒以降であると推定していること、フライト・データ・レコーダの垂直加速度の記録値によれば、垂直加速度は、接触時を同記録が瞬間的に一・一Gを示した時点であるとすれば、接触後八秒ないし一四秒ころはマイナス一Gないし一・五G、接触後一六秒ころはマイナス二Gとなり、接触後二〇秒ころはマイナス三Gを越えていることが認められる。
<証拠省略>中には、接触後二〇秒後には垂直加速度はマイナス三Gを越えるから、操縦輪を保持して送信することは不可能であるし、それ以前に局部的破壊により送信アンテナも破壊されてしまうとの趣旨の各供述記載部分があり、証人荒木浩の証言中には、全日空機の機体の強度は、マイナス一・五Gまで耐えうるように設計されているにすぎないから、それを越えると局部的破壊が起ること、二分五三・六秒に発せられた全日空機機長の絶叫は、胴体上部構造の局部的破壊(与圧室の爆発)により急減圧が起つたために生じたものであろうとの供述部分がある。
<証拠省略>は、「人間が生理的にどの程度の加速度環境に耐えうるかという判定(加速度の大きさとその持続時間とに関連する。)に関して、負の垂直加速度については、根拠としうる資料がない。」としているが、<証拠省略>によれば、マイナスGに関する人間の耐容性に関するデータは少ないが、通常の限界は、マイナス三Gで五秒間とされていること(なお、マイナス三Gで五〇秒間という報告もあること)が認められる。
仮に、接触時刻を原告ら主張の二時二分三九秒ころとすると、全日空機機長の最後の絶叫が発せられたのは接触後約一四、五秒後ということになるが、そのときの垂直加速度は前記のとおりマイナス一Gないし一・五Gであつたことと対比すると、果たしてその程度で絶叫せざるをえない状況となつていたかどうか疑問であるし、また、マイナス一・五Gを越えると、全日空機の胴体上部が破壊されて必ず与圧室の爆発が起こることを認めうる客観的な証拠もない。
ちなみに、<証拠省略>を総合すれば、佐藤千代志、大久保咲枝らは雫石町市街地において、接触後全日空機が白煙を吐いて南々東方向に降下して行くのを目撃していること、全日空機のフライト・データ・レコーダ記録は接触後二五、六秒まで正常に打刻されていることが認められ、右事実によれば全日空機は高度上空で、いわゆる空中分解したものではなく、白煙を吐いて地上近くまで徐々に降下して行つたものであると推定される。
そうすると、接触後一五秒以降は、生理的に見て全日空機機長が操縦輪を保持し通話することが不可能であるとは認め難いし、また、全日空機機長の通話が前記のように言葉にならない絶叫で終つていることに鑑みれば、右絶叫のみから接触時刻を午後二時二分三七秒以降と断定することは困難であるといわざるをえない。
(3) 隈の緊急通信開始時刻に基づく推定について
<証拠省略>によれば、事故調査委員会は、「隈は、市川が全日空機を視認する直前に市川に対し接触回避の指示を与え、同時に自己機を右に旋回させ、続いて急ぎ左に反転させて全日空機と訓練生機の接触を確認し、午後二時二分四八・二秒に最初の『エマージエンシー』の通報を発しており、接触時刻と右通報との時間間隔は六秒ないし一〇秒と考えられるから、接触時刻は、二時二分四〇秒を中心とする数秒間の時間帯内に含まれる可能性が大きい。」と推定していることが認められる。
ところで、<証拠省略>によれば、隈は、時計の七時ないし七時半の方向に訓練生機とその直近に全日空機を発見し、市川に回避の指示を与え、訓練生機を誘導するつもりで自己機を右旋回させたこと、続いて左に切り返して訓練生機の方を見ると、すでに衝突後であり、訓練生機が回転しながら落ちていくのが見え、その後、全日空機が白煙状のようなものを吐きながら約二〇度の降下角で隈の頭上を通過するのが見えたこと、それから隈は、さらに左旋回しながら高度を下げて訓練生機を見ると、後部胴体がなくなつたようにバラバラになつて落ちていくのが見え、再び全日空機を見ようとしたがすでに同機の姿は見えなかつたこと、その後緊急通信周波数であるGチヤンネルに切りかえながら降下し、発信可能となつた時点で「エマージエンシー」を三回通信したことが認められる。
<証拠省略>によれば、松島派遣隊において、隈の右供述に基づき、全日空機を発見してからGチヤンネルにセツトするまでの所要時間について飛行テスト(F-86Fのべ一三機によるテスト)を行つた結果、一七秒から二二秒、平均一九・五秒を要したことが認められる。
もつとも、この種の飛行テストが事故当時の隈の行動を正確に再現しうるものであるかどうかは疑問であるが、<証拠省略>によれば、隈は、衝突を確認してからエマージエンシーコールまでの時間を大体一五秒ぐらいと記憶していることが認められるし、また、証人荒木浩の証言中には、全日空機の降下角は、接触後五秒でマイナス一五・五度、七・五秒でマイナス二七度となる旨の供述があるが、仮にこれを前提としても、全日空機の降下角がマイナス二〇度(前記隈供述)になるのは、接触後六ないし七秒ころということになり、その後、隈は、訓練生機がバラバラになつて落下していくのを降下しながら見た後、全日空機を探し、その後にGチヤンネルへの切りかえ操作を開始したというのであるから、隈がGチヤンネルの切りかえ操作を開始したのは、接触後一〇秒前後経過した時点であるということになるし、さらに、<証拠省略>によれば、隈が使用していた周波数であるタンゴ六からGチヤンネルへの切り換え操作に数秒を要し、Gチヤンネルにセツトされてから発信可能となるまで四秒以上(最大八秒)を要することが認められる。
そうすると、隈がGチヤンネルの操作を開始するまでの飛行に要した時間(一〇秒前後)にGチヤンネルへの切り換え操作に要する時間及び発信可能となるまでの時間を加味すれば、隈が緊急通信を開始したのは、接触後一六、七秒後であると推認することができる。
そうすると、接触時刻と緊急通信との時間間隔は六ないし一〇秒であるとする前記事故調査委員会の推定には合理性がなく、むしろ、接触時刻は、緊急通信が最初になされた午後二時二分四八・二秒より一六、七秒前の二時二分三一、二秒ころと推認するのが相当である。
なお、これは、前記ブームマイクの送信ボタンの空押しにより二時二分三二秒すぎに〇・三秒の雑音が生じていることを接触時の衝撃による可能性があるとしたこととも合致するものであるし、接触時刻が二時二分三二秒ころということになると、前記全日空機機長の最後の絶叫は、接触後約二一秒後に発せられたことになるが、このことが、負の垂直加速度下における人間の耐容性の限界と矛盾するものでないことはすでに説示したとおりである。
(4) 結論
以上の次第で、全日空機と訓練生機との接触時刻は、昭和四六年七月三〇日午後二時二分三二秒ころと認めることができる。
二 被告の責任
1 国家賠償法第一条の責任
隈及び市川が国の公権力の行使にあたる公務員であることは当事者間に争いがなく、本件事故が機動隊形の編隊飛行訓練という右両名の職務執行中に生じたものであることは、被告において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。
2 隈及び市川の過失(その一)
(主位的主張)ジエツトルート内で飛行訓練をしない義務及び訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で飛行訓練をしない義務とその違反。
(一) ジエツトルートの保護空域内で飛行訓練をしない義務
航空交通管制のうちの航空路管制の形態として、ルート管制とエリア管制とがあること、我が国における高高度管制区(高度七三〇〇メートル以上の空域)がエリア管制空域であることは当事者間に争いがない。
原告らは、自衛隊機がジエツトルートの保護空域内で機動隊形の編隊飛行訓練を行うことは航空法で禁止されているし、実質的にも、飛行頻度の高いジエツトルートJ11Lで右飛行訓練を行うことは衝突の危険性が極めて大きいことを理由に、ジエツトルート内で機動隊形の編隊飛行訓練を行うこと自体、過失があると主張するので、以下、順次検討する。
(1) ジエツトルート及び保護空域の意義について
<証拠省略>によれば、ジエツトルートは、航空機の運航の安全という見地から、プロペラ機とジエツト機の飛行する空域を分離するため、高度二万四〇〇〇フイート(約七三〇〇メートル)以上の高高度管制区内に設けられたジエツト機の飛行経路であるが、その定めについては航空法上明文の根拠を有するものではなく(運輸大臣の運輸行政上の航空管制権限に由来するもの)、航空法第九七条による飛行計画の承認を与えるための実施基準として航空管制上定められたものにすぎないこと(なお管制上高度基準もある。)、しかし、右ジエツトルートの設定に関しては、運輸省と防衛庁との間で十分協議し、運輸大臣と防衛庁長官との間で覚書を交わし、ルートの制定改廃について防衛庁長官の意見を聞くこととされていること、そして、ジエツトルートに関する高高度管制業務の実施については、昭和三六年一〇月三一日付の空管第二六八号によつて関係各方面に通知され、昭和三七年五月五日から実施されたことが認められる。
ところで、<証拠省略>によれば、ジエツトルートは、高高度管制区において原則として三〇〇浬(海里、海マイルと同義)以内の距離にある高高度用航空保安無線施設を直線で結ぶ経路であり、当該無線施設から一〇〇浬までは中心線の両側一〇マイル(八・七浬)、それ以上のときは当該無線施設より五度の角度で中心線から縁までの幅を増し、一五〇浬の地点で幅一五マイル(一三浬)になる区域を有する経路であるとされ、<証拠省略>中には、ジエツトルートには右のような幅(空域)があり、これは実質的に航空路と同様の機能を有するものである旨の供述部分がある。
他方、<証拠省略>によれば、運輸省航空局の航空保安業務処理規程第五、管制業務処理規程I管制方式基準において、ジエツトルートとは、航空保安無線施設上空相互間を結ぶ高高度管制区における直行経路をいい、管制官がIFR機(計器飛行方式による航空機)に対し、管制区内の既設のジエツトルート又はその他の直行経路を承認する場合は、二万四〇〇〇フイート以上の高度にあつては、前記空管第二六八号に記載されたジエツトルートの幅に該当する空域を保護空域として確保するものとされ、ジエツトルートに右保護空域が設けられたのは、管制官が航空法第九七条の飛行計画を承認する際二機重複して承認しないように義務づけ、もつて衝突を防止するためであることが認められる。
そして、<証拠省略>によれば、高高度管制区においても、有視界飛行方式による航空機の飛行が禁止されるものではなく、航空法施行規則第五条第四号の有視界気象状態(高高度管制区における視界上良好な気象状態)においては有視界飛行方式による飛行が許され、高高度管制区における計画飛行方式による航空機については、できる限り空管第二六八号の添付図面に示されたジエツトルート(これは航空保安無線施設を結ぶ直線で示されている。)を利用して飛行すべきであるとされていることが認められる。(なお、以下、ジエツトルートと呼ぶ場合は、高高度用航空保安無線施設間を結ぶ直線を意味するものとする。)
そうすると、ジエツトルートの保護空域は航空管制機関が飛行計画を承認する場合に、その管制業務を行うに当つて、確保しなければならない横間隔(この点については後述する。)であるに過ぎないということができ、有視界気象状態においては、ジエツトルートの保護空域内を有視界飛行方式による航空機が飛行することを制限するような特別の法的根拠は存在しない。
(2) 航空情報としてのジエツトルート及び保護空域の公示性について
ジエツトルートが航空法第九九条、同法施行規則第二〇九条の二に基づく航空情報の一部として航空路誌等によつて公示されていることは当事者間に争いがない。
<証拠省略>によれば、ジエツトルートは、航空路が運輸大臣によつて指定され告示される(航空法第三七条)のと異り、航空法第九九条による航空機の運航のための必要な情報の提供として公示されるに過ぎないものであること、J11Lは前示のとおり、昭和三六年一〇月三一日付空管第二六八号をもつて通知されたこと、公示手段である航空路誌にはジエツトルートは航空保安無線施設間を結ぶ直線として図示されていること、航空路関係事務は運輸省航空局運航課の所管であるのに対し、ジエツトルート関係事務は同局管制課の所管とされていること、しかしジエツトルートも航空会社、防衛庁、米軍に所属する各操縦士に対してノータム(ノーテイス、ツー、エアマン)として周知、徹底がはかられていること、これに反し保護空域は、運輸省の内規である「航空保安業務処理規程」の管制業務処理規程中の「管制方式基準」に規定されているのみで、右空管第二六八号が航空関係各方面に通知された際にも、保護空域に関する右規程は配布されなかつたことが認められる。
以上によれば、ジエツトルートJ11Lの存在については航空機操縦者は十分認識しており、かつ認識すべきであるが、その保護空域については必ずしも十分な認識がないというべきである。
もつとも、前示のとおり、高高度管制区においては、計器飛行方式によるジエツト機は、承認された飛行計画に従つて、定められたジエツトルートを飛行するよう航空管制がなされていること、したがつて、後記のとおりジエツトルート近傍はそれ以外の空域より飛行頻度が高いこと、しかもジエツトルートの存在については、航空情報として公示され、航空機操縦者は十分認識すべきであることを考えれば、有視界飛行方式による航空機操縦者は、航空機の接触防止等その航行の安全を目的とする航空管制を尊重し、その管制上設けられたジエツトルート近傍においては、航行の安全の見地から、航空管制に従つて飛行している航空機と接触することがないように見張りを厳にし、早期に接触を回避するよう特に注意すべきであるということができる。(後述のように、松島派遣隊の飛行制限空域の規定も右の趣旨から定められたものであり、後記昭和四二年一月二四日付航空幕僚長名義の通達は、右の意味での見張りと早期自主回避を強調している。)
(3) ジエツトルートJ11Lの飛行頻度について
<証拠省略>によれば、本件事故当時、ジエツトルートJ11Lを飛行していた定期旅客便は一日約三〇機で、そのほとんどが南行便であり、<証拠省略>によれば、ジエツトルートJ11Lの飛行頻度は、全国的に見れば中程度、東北地方においては最も頻度が高いルートの一つであることが認められる。
そして、<証拠省略>を総合すると、高高度管制区を計器飛行方式により飛行する航空機は、ほとんどがジエツトルートを飛行していること、ジエツトルートを飛行するパイロツトとしてはできる限りジエツトルートから離れないように飛行するように努めていること、もつとも、ジエツトルートの直線上を正確に飛行することは計器の誤差等や天候の影響からいつて実際上不可能であり、偏流修正を最大限に見て、通常、ジエツトルートから両側約五海マイルの範囲内を飛行する可能性が大きいことが認められる。
そうすると、ジエツトルートJ11L及びその近傍(両側約五海マイルの範囲)の飛行頻度は、相当高いものということができる。
(4) 機動隊形の編隊飛行訓練の危険性について
機動隊形の編隊飛行訓練における教官機と訓練生機の基本関係位置は、すでに説示したように、別紙図面四のとおりであり、横間隔が五〇〇〇ないし八〇〇〇フイート、縦間隔が五〇〇〇フイート、高度差二五〇〇ないし三五〇〇フイートと相当の距離があるうえ、訓練生機は高度と速度の変換を行つて上下に移動し、左右の旋回半径は四ないし五マイルであり、旋回中に通過する空域は広大なものとなるし、また、訓練生機は教官機よりも常に後上方にあつて、教官機の後方ないし直上を交差することもあるので、機動隊形の編隊飛行訓練は、一定の高度を巡航する航空機と異なり、他の航空機との衝突の危険性は相当高いということができる。従つて、実質的に考えて、飛行頻度の高いジエツトルート近傍において機動隊形の編隊飛行を行う者は定常ないし巡航の場合と比較して、安全のため一層厳しい見張り義務を負うものというべきである。
(5) 機動隊形の編隊飛行訓練の航空法違反について
自衛隊機が本件接触前に機動隊形の編隊飛行訓練をなしていた空域が、ジエツトルートJ11L及びその近傍であつたことは前示一2(四)(4)(本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路結論)のとおりであるが、ジエツトルートが飛行頻度の点で実質的に航空路と異ならないとしても、右(2)説示のとおり、ジエツトルートは航空交通管制上のもので、通路としての航空路と規制の態様を異にし、航空路には当らないので、航空路における曲技飛行を禁止した当時の航空法第九一条違反は、その前提において採用の限りでない(同法はその後現行法のように改正された)が、さらに、<証拠省略>によれば、自衛隊において、曲技飛行とは、操縦者が意図して行う宙返り、横転等航空機の機軸又は横軸と水平面とのなす角が九〇度以上の変化を伴う飛行をいうとされ、一般にもおよそそのように理解されていることが認められ、前記認定の機動隊形の編隊飛行訓練が右の曲技飛行に該当しないことも明らかである。
また、機動隊形の編隊飛行訓練が広大な空域を必要とし、急激な上昇下降や左右の旋回を伴うものであるとしても、その飛行の要領態様は前認定のとおりであるから、これをもつて航空法第八五条の粗暴な操縦の禁止の規定に触れるものということもできない。
つぎに、航空法第八二条、同法施行規則第一七七条は、ジエツトルートを航行する航空機について、高度二万四〇〇〇フイートから二万九〇〇〇フイートまでは五〇〇フイートずつの垂直間隔、二万九〇〇〇フイート以上は一〇〇〇フイートずつの垂直間隔を設けて巡航高度(水平定常飛行する際に遵守すべき高度)を定め、これによつて有視界飛行方式と計器飛行方式の航空機との衝突の予防を図つていることは規定の趣旨に徴して明らかである。したがつて巡航しない航空機の場合には、他機との衝突の危険性は高く、それだけ厳重な見張り義務を負うものというべきである。
しかし、有視界気象状態の下では、ジエツトルートまたはその近傍においても有視界飛行方式による飛行をすることを航空法上、何ら制限、または禁止していないこと前説示のとおりであるから、他機と接触しないよう厳重に注意すべきであることは格別、有視界飛行方式による機動隊形の編隊飛行をすることも特別の規定がないかぎり、制限ないし禁止されるものではないといわねばならない。
右航空法第八二条、同法施行規則第一七七条は巡航(水平定常飛行)する有視界飛行方式による航空機と計器飛行方式による航空機につき、それぞれその高度を定めた規定であつて、機動隊形の編隊飛行訓練は、前にその飛行要領につき説示したとおり、教官機は原則として一定の高度を維持して飛行するが、訓練生機は高度と速度の変換を行つて高度を上下させるものであつて巡航ではないから、もともと右規定が適用されるものではないし、さらにジエツトルートまたはその近傍においては、機動隊形の編隊飛行を中止して、水平定常飛行である巡航に移り右の巡航高度を保持すべき航空法上の特別の規定は見出し得ない。もつとも右規定の趣旨に徴すれば、巡航でないことによる厳重な見張り義務を負うことは前説示のとおりである。
ちなみに、<証拠省略>によれば、航空管制官である永竹庄平は、巡航以外の場合は、前記巡航高度の定めによつて衝突を回避することはできず、見張り以外に衝突を回避する方法はないと述べていることが認められる。
さらに、<証拠省略>によれば、教官である隈は勿論、訓練生である市川も航空従事者技能証明を取得しており、F86Fを単独で操縦する技量を有していたことが認められるから、機動隊形の編隊飛行訓練が航空法第九三条の操縦練習に該当するとの原告らの主張は採用できない。
以上のとおり、原告ら主張の航空法違反の点はいずれも失当であるが、そもそも不法行為における過失は形式的な法違反が問題となるのではなく、事故との関係において、行為者が安全のため具体的に如何なる注意を尽くすべきであつたかを問題とすべきであり、この点からも原告らの主張は失当というべきである。
(6) 結論
以上の次第で、航行の安全の見地から実質的に考えれば、飛行頻度のかなり高いジエツトルートJ11L近傍(両側約五海マイルの範囲)において機動隊形の編隊飛行訓練を行うことは、一般に民間旅客機との衝突の危険性が相当大きいので、厳重な見張り義務が要求されることは勿論であるが、ジエツトルートの保護空域内で機動隊形の編隊飛行訓練を行うことが、直接航空法規に触れるものとはいい難く、ジエツトルートの保護空域に侵入して右飛行訓練を行つたこと自体をとらえて自衛隊機操縦者に過失があるとする原告らの主位的主張Hは理由がない。
(二) 松島派遣隊の訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で飛行訓練をしない義務
原告らは、松島派遣隊の訓練空域及び飛行制限空域の定めは法令上ないし条理上の規制であるから、自衛隊機が訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で機動隊形の編隊飛行訓練を行うこと自体に過失があると主張するので、以下、順次検討する。
(1) 松島派遣隊の訓練空域及び飛行制限空域の設定
防衛庁航空自衛隊第一航空団松島派遣隊が、同派遣隊飛行訓練準則第一五条第一項において、 「飛行訓練は原則として訓練空域において実施するものとする。」と定め、同条第二項において、「ジエツトルートJ11L」の左右各五海マイル内の高度二万五〇〇〇フイートから三万一〇〇〇フイートの空域においては、飛行訓練(航法、模擬緊急着陸、計器出発、進入を除く。)は、やむを得ない場合を除き、実施しないものとする。」と定めていることは当事者間に争いがない。
ところで、<証拠省略>によれば、防衛庁は、昭和三八年以来、航空自衛隊各部隊に対し、異常接近または空中衝突を防止するため、操縦者は見張りを厳にし、航空路を横切る場合は、至短距離を直線的に、かつ、なし得れば航空路最低高度以下の高度で飛行するよう通達し、あるいは、航空路、ジエツトルート等の関係から訓練空域を再検討し、飛行訓練を行う場合は、訓練空域を厳守し、特に見張りを厳にし、他機等との間隔を十分にとり他機の操縦者等に危惧の念を持たせないこととの指令を出し、特に昭和四二年一月二四日付航空幕僚長名義の航空機の異常接近防止の通達には「民間ジエツト大型機との異常接近が発生した場合、各方面に及ぼす影響は少なくないことに留意し異常接近の絶無を図ること、航空路(G-4、G-5等)、高高度管制区ジエツトルート(J20L、J-30L)及びターミナル管制区域(東京、大阪、浜松-名古屋)を飛行する場合には、次の理由により特に見張りと早期自主回避を適切に実施すること。(1)計器飛行方式による民間ジエツト大型機の運航が輻綾している。(2)これらの民間ジエツト大型機は、旅客に与える影響から急激な回避操作が困難であり、かつ回避操作を行つても直ちに方向等の変換となつて表われない。」と指示していたことが認められる。
さらに、<証拠省略>によれば、航空自衛隊は、昭和四五年一月二六日付航空自衛隊達第三号によつて、航空機の運航に関する達と題する訓令を定め、同年二月一二日付航空自衛隊公報によつて、これを各部隊に周知徹底させたこと、右航空機の運航に関する達第一九条第二項は、「航空機は航空路その他常用飛行経路及びその付近においては、特に見張りを厳にして他の航空機への異常接近を予防しなければならない。」と定めており、右の常用飛行経路にはジエツトルートJ11Lも含まれることが認められる。
そしてまた、<証拠省略>によれば、航空自衛隊第四航空団は、昭和四六年六月一一日改正の第四航空団飛行訓練規則第二六条で、「天候によりやむを得ない場合及び緊急状態にある航空機を除き、飛行制限空域内において、次の各号の飛行を実施してはならない。(1)VFR訓練(航法及びSFOを除く)(2)VMC ON TOP訓練(航法及び計器出発・進入機を除く)(3)整備飛行」と定めたこと、昭和四六年七月一日に松島基地に配置された第一航空団松島派遣隊は、第四航空団の右飛行訓練規則にならつて前記飛行訓練準則を定めたことが認められ、<証拠省略>によれば、航空自衛隊第一航空団は、昭和四六年七月一三日、飛行訓練準則を定め、「航空路の横断は、見張りを特に強化し、航空路に対し概ね直角に横断する。編隊飛行の場合は、疎開隊形及び機動隊形以外の隊形をもつて横断する。」「航空路及びジエツトルート近傍では空中戦闘訓練及び空中操作の課目は実施しない。」と定めたことが認められる。
以上のとおり、自衛隊においては、度たび通達を出して、隊員に、民間航空機との異常接近の防止のため格別の注意を喚起していたことが認められる。
これらの経緯に照らし、かつ、前記松島派遣隊飛行訓練準則の規定自体からして松島派遣隊の右飛行制限空域の定めが、本件ジエツトルート近傍を航行する民間航空機等との異常接近ないし空中衝突を防止する目的で設定されたものであることは疑いの余地がなく、従つて、右派遣隊員は、航空機の操縦者としての一般的義務の外に、右隊員としても、本件ジエツトルート近傍においては、特に見張りを厳重にし、民間航空機等との異常接近ないし空中衝突を早期に自主的に回避すべき義務を負うことは当然というべきである。
しかしながら、本件においては、隈らの自衛隊内における右準則違反の責任が問題とされているのではなく、本件事故との関係で隈らの航空機操縦者としての航行上の義務違反ないし過失の成否が問題とされるべきものであるから、この観点から右訓練準則違反ないし過失の有無について検討することとする。
(2) 松島派遣隊飛行訓練準則の法的効力
原告らは、松島派遣隊飛行訓練準則に定める飛行制限空域は、法令上ないし条理上の一般的規制であると主張するが、航空法、同法施行規則等に飛行制限空域の設定を義務づける規定を見出すことはできないし、また、<証拠省略>によれば、ジエツトルートの両側に飛行制限空域を設定するか否かは航空自衛隊各部隊の自主性にまかされており、本件事故当時、飛行制限空域を設定していたのは、前記の第一航空団及び第四航空団のみであつたことが認められるから、右準則が当該隊員を越えた一般的規制力を有するものとはいえない。
しかも、仮に飛行制限空域内で飛行訓練を行つたとしても、それが民間航空機等との異常接近ないし空中衝突を招く危険性が高いことは否定しがたいものの、見張り義務を尽しているかぎり衝突を回避することは可能であるから、飛行制限空域内に侵入して飛行訓練を行つたことが、直ちに本件空中衝突という結果を招来した(相当因果関係がある。)ものとはいえない。従つて飛行制限空域内において機動隊形の編隊飛行訓練を行うことが、条理上望ましくないことは勿論であるが、絶対許されないものといい切ることは困難であり、右空域内で飛行訓練を行つたこと自体に過失があるとする原告の主張は理由がない。
なお、原告らは、隈及び市川らが事故当日、ジエツトルートを考慮して設定された臨時訓練空域、「拡張した横手空域」中の「盛岡空域」を逸脱した(原告ら主張の「盛岡空域」の東側境界線は、ジエツトルートJ11Lの西五マイルの飛行制限空域の西限線と一致している。別紙図面一参照)として、そのことをもつて隈らに過失があつたと主張するところ、訓練空域の設定及びこれを遵守することの要請が、これによつて訓練機と民間機との接触を防ごうという趣旨にあることは勿論であるが、前説示一2(一)(2)(臨時訓練空域「盛岡空域」の設定)のとおり、当日設定された盛岡空域なるものは、その範囲が原告ら主張のように截然としたものではないので、隈らの飛行が訓練空域を逸脱したものと断じることは困難である。
従つて、原告らの主位的主張(二)は理由がない。
もつとも、飛行制限空域の設定が前示認定のように、民間航空機等との異常接近ないし空中衝突を防止する趣旨であることにかんがみれば、自衛隊機操縦者が前記飛行制限空域(これは、航空管制に従つた航空機が飛行するジエツトルート及びその近傍に一致する。)において飛行訓練する場合、民間航空機等との接触を回避するため、厳重な見張り義務を負い、早期に自主的な衝突回避の措置をなすべき義務を負うことは、条理上も当然といわねばならない。
3 隈及び市川の過失(その二)
(予備的主張)隈及び市川の見張り義務並びに衝突回避義務とその違反
原告らは、自衛隊機塔乗員である隈及び市川に、本件ジエツトルート近傍を飛行中、他機に対する見張り義務及び衝突を未然に防止すべき注意義務を怠つた過失があり、本件事故は右過失によつて惹起されたものであると主張する。
そこで、考えるに、航空機の操縦者が航空機を安全に航行すべきこと、そのためには可能な限り前方に対する見張り(アウトサイドウオツチ)を行い、いやしくも他機と衝突することのないよう操縦すべき義務のあることは条理上当然のことであつて、航空法上特別の規定を待つまでもないことというべきである。ちなみに、隈ら所属の松島派遣隊の飛行訓練準則には後記のとおり訓練中の見張り義務を規定し、また本件事故後、航空法第七一条の二において、操縦者の見張り義務が制定されたが、これらの規定は衝突防止の見地から前記条理上の義務を特に注意的に規定したものと考えるべきである。
そして、このような航行上の安全義務は、航空機操縦者のすべてに対して課せられるべきものであり、しかもその具体的内容は航行時における具体的状況のもとにおいて予想される危険との関係で条理に従つて判断されねばならない。ちなみに前記航空法第七一条の二は見張りの内容方法について格別の規定を設けていないのはこの趣旨によるものと考えられる。
したがつて、本件航空機操縦者らの航行上の過失に関する判断も、その航行時における具体的状況を前提として条理に従つて客観的になされねばならない。
以下、これを前提として、具体的に検討することとする。
(一) 有視界飛行方式による航空機の見張り義務及び衝突回避義務
教官機及び訓練生機が有視界気象状態において有視界飛行方式によつて機動隊形の編隊飛行訓練を行つていたことは当事者間に争いがない。
有視界気象状態とは、視界上良好な気象状態をいうが、高度七三〇〇メートル以上の高高度管制区においては、「イ、飛行視程が八〇〇〇メートル以上であること、ロ、航空機からの垂直距離が上方及び下方に三〇〇メートルである範囲内に雲がないこと。ハ、航空機からの水平距離が一五〇〇メートルである範囲内に雲がないこと。」という条件に適合する気象状態をいう(当時の航空法第二条第一三項、航空法施行規則第五条第四号)。
そして、有視界飛行方式とは、有視界気象状態を維持しようとして行う飛行の方法をいい(同施行規則第五条の三)、計器飛行方式とは、有視界飛行方式以外の飛行の方法をいう(同施行規則第五条の二)。
計器気象状態とは、有視界気象状態以外の気象状態をいい、計器気象状態においては、航空機は、原則として計器飛行方式により飛行しなければならないが(当時の航空法第九四条の二本文)、有視界気象状態において、飛行方式を制限する規定は当時存在しなかつた。
原告らは、計器飛行方式による航空機(IFR機)は、国の航空管制により他機との衝突防止が図られているので、その操縦者は見張り義務を負わないのに対し、有視界飛行方式による航空機(VFR機)は、国の航空管制を受けないのであるから航行の安全、衝突防止につき自ら全責任を負い、あらゆる方向に対する見張り義務と衝突回避義務を負うと主張するが、前説示のとおり、有視界気象状態においては飛行方式を制限する規定はないこと、また、有視界気象状態においては、ジエツトルートをVFR機が飛行することは制限されていないこと、従つて、たとえ航空管制に従つてジエツトルートを飛行する場合でも、有・視界気象状態においては、有視界飛行方式による航空機との接触の可能性、その他航行上の危険が皆無とはいえないこと、また、当時の航空法第九四条も、「航空機は有視界気象状態においては、計器飛行を行つてはならない。」と規定し、IFR機も計器のみに依存して飛行することを禁止し、間接的にIFR機操縦者にも見張り義務を課していること等にかんがみれば、IFR機が国の航空管制を受けていることをもつて見張り義務を免除され、国の航空管制を受けないVFR機のみが航行の安全、衝突防止につき全責任を負うという原告らの主張は失当である(なお前記航空法第七一条の二参照)。そして、有視界気象状態におけるIFR機とVFR機の衝突防止策としては、航空法第八二条、同法施行規則第一七七条の定める巡航高度による垂直間隔の設定(巡航の場合)があるほかは、IFR機とVFR機の各操縦者が相互に行う見張りによつて早期に相手機を発見し、衝突を回避する操作を行う以外にないものというべきである。
(二) ジエツトルートJ11L近傍における見張り義務及び衝突回避義務
ジエツトルートJ11L及びその近傍(両側約五海マイルの範囲)の飛行頻度は相当高いこと、機動隊形の編隊飛行訓練は、巡航の場合に比し危険性が高く、しかも右のように飛行頻度の高いジエツトルートの近傍では衝突の危険性が一層高いことは、前記二2(一)(ジエツトルートの保護空域内で飛行訓練をしない義務)(3)及び(4)で認定したとおりであるから、本件ジエツトルート近傍において機動隊形による編隊飛行を行う場合には、その操縦者は特に高度の見張り義務を負うものといわねばならない。
ちなみに防衛庁は、昭和三八年以来、航空自衛隊各部隊に対し、訓練空域の厳守、航空路その他常用飛行経路(ジエツトルートも含む)及びその付近においては、特に見張りを厳重にし、早期に他機を発見し、自主的に回避操作をとるべきこと等航空機の異常接近防止に関する通達をくり返し発していたことは、前記二2(二)(松島派遣隊の訓練空域を逸脱して飛行制限空域内で飛行訓練をしない義務)(1)で認定したとおりである。
また、<証拠省略>によれば、松島派遣隊飛行訓練準則第一五条第四項には「飛行訓練間は見張りを厳重にし、他の航空機への異常接近を防止しなければならない。」との定めがあり、<証拠省略>によれば、同派遣隊は隊員に対し、飛行訓練中、厳重な見張りを行うよう指導していたことが認められる。
以上のような次第で、自衛隊機操縦者は、ジエツトルートJ11L及びその近傍(両側約五海マイルの前記松島派遣隊の飛行制限空域と重なる空域付近)において機動隊形の編隊飛行訓練を行う場合には、特に見張りを厳重にし、民間航空機等と衝突しないよう、早期に自主的に回避操作を行う義務があるということができる。
(三) F-86Fジエツト戦闘機操縦者の編隊飛行訓練における見張り義務
(1) F-86Fジエツト戦闘機操縦者の一般的見張り義務航空機操縦者の見張りの方法及び見張るべき範囲を定めた法条は航空法規上存在しない。しかしながら、航空機操縦者が前方に対する見張りを心要とするのは航行の安全のためであることから考えれば、見張りの方法を特別の方法に限定すべき理由はなく、その範囲も航行上どの範囲を見張れば安全が維持できるかという観点から考えなければならない。そして、<証拠省略>によれば、F-86Fジエツト戦闘機操縦者としては、通常、進行方向及び無理なく首を左右に回して見うる範囲を見張つていたこと、<証拠省略>によれば、隈は通常、進行方向の左右各六〇度の範囲の見張りを行つていたこと、<証拠省略>によれば、通常、進行方向の左右各六〇度の範囲の見張りを行うが、その場合、首を回して目のまん中に六〇度の方向が見えるようにするので、見える範囲はおのずから左右各六〇度以上になることがそれぞれ認められる。
また、<証拠省略>によれば、頭部を固定させて眼球を最大移動させた場合、両眼視が可能であるのは、左右各六〇度の範囲であること、頭部を最大回旋し、眼球を最大移動させた場合、両眼視が可能であるのは、左右各一三二度の範囲であること、視力は目の中心視線から一〇度へだたると相当低下するものの、中心視線の両側三〇度までは中心部視野といつて、視野における目標存在感があることが認められる。
以上を総合すれば、F186Fジエツト戦闘機操縦者は、通常無理なく首を左右に各六〇度まで動かして見張りを行つており、その際、左右各七〇度までは比較的見易く(眼球を移動させれば見易い範囲はさらに広がる。)、左右各九〇度までは目標存在感がある範囲に入ることが認められる。従つて、右戦闘機操縦者として、航空交通の安全を図るため一般的に要求される見張るべき範囲は、少なくとも進行方向の左右各七〇度までの範囲であることができる。
(なお、上下の視野については、<証拠省略>によれば、頭部固定、眼球最大移動の場合、両眼視が可能な範囲は、上方六六度、下方八二度であることが認められる。)
(2) 教官隈の見張り義務
<証拠省略>によれば、機動隊形の編隊飛行訓練を行う場合、教官は、訓練生が操縦の未熟さから見張りを十分行うことができないことがあるので、自機の航行の安全のための見張りのみならず、訓練生機の航行の安全を維持するため、その飛行を監視・誘導する必要があり、訓練生機前方の安全をも見張り、もつて編隊全体の航行の安全を図る責務があること、そして機動隊形による編隊飛行においては、内側旋回の場合、訓練生機は、教官機の直上を交差して外側へ、外側旋回の場合教官機の後方を通過して内側にそれぞれ移動するので、教官は、訓練生機を監視するためには後方に首をひねつてこれを注視しなければならないこと、しかしながら、首をひねつて注視することができる限界は、進行方向の左右各一五〇度までであり、左右各一五〇度より後方は、ヘツドレスト、救命装備品等によつて視野が妨げられ、監視はほとんど不可能であることが認められる。
そして、前記のとおり、頭部を最大限に回施し、眼球を最大限に移動させた場合に、両眼視が可能であるのは、左右各一三二度の範囲であることを合わせ考えると、教官機操縦者たる隈は、自機の航行の安全のために少くとも自機の進行方向の左右各七〇度の範囲の見張りをすべきことは勿論であるが、編隊訓練の教官として、訓練生機の航行の安全のために両眼視が可能な、進行方向の左右各一三二度の範囲の空域を見張るべき義務があるものというべきである。
そして、隈ら自衛隊機は、前記のとおり、民間航空機と衝突の危険性の大きいジエツトルートJ11L近傍を機動隊形で航行していたのであるから、隈の前記範囲での見張りは一層厳重なものでなければならない。
ところで、<証拠省略>によれば、隈は、昭和三四年四月航空自衛隊に入隊し、第一、第二各初級操縦課程、基本操縦課程、戦闘機操縦課程を、同四一年六月第二初級操縦教官課程、同四四年一〇月計器飛行教官課程、同四六年六月F・86ジエツト戦闘機操縦教官課程を了し、各教官資格を取得し、この間前示航空従事者技能証明書、計器飛行証明書(緑)を取得、同四五年三月上級操縦士資格を取得し、一等空尉として、同四六年七月一日第一航空団松島派遣隊飛行隊に配置され、教官として戦闘機操縦課程訓練生に対する編隊訓練の指導に従事していたこと、そして本件事故時までの飛行時間は約二四八〇時間のうち、F・86ジエツト戦闘機によるものは約七三〇時問であつたことが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
そして、<証拠省略>によれば、隈らが常に使用していた松島派遣隊のブリーフイング・ルーム内には、ジエツトルートJ11Lなどの記入してある「飛行制限空域図」が常時掲示されていたこと、隈は、本件事故発生以前に飛行訓練準則を読み、自己の航空図にジエツトルートJ11Lを記入したことがあること、ジエツトルートが「航空機の運航に関する達」にいう常用飛行経路に含まれ、異常接近防止のための見張りを厳重にするようにとの指導がなされていたことを知つていたこと、松島派遣隊がジエツトルートJ11Lの両側五海マイルの範囲を飛行制限空域としているのを知つていたこと、本件事故当日においては、ジエツトルートJ11Lは松島から真北・盛岡あたりを通つているものと思つていたこと、従つて、盛岡には近寄らないようにし、横手の北の方で飛行訓練を行うよう心がけていたことが認められる。
そうすると、隈はジエツトルートJ11L近傍ないし飛行制限空域付近においては特に厳重な見張が要請されることを十分認識していたものと認めることができる。
もつとも、前示一2(一)(2)(臨時訓練空域「盛岡空域」の設定)のとおり本件事故当日隈らの飛行訓練のために臨時に訓練空域を設定した松島派遣隊飛行班長補佐土橋国宏はジエツトルートJ11Lを念頭に置くことなく、右空域を設定し、主任教官である小野寺一尉に対し、臨時訓練空域として横手空域の北側から盛岡周辺を指で差し示し(その範囲内にジエツトルートJ11Lが存することは明らかである。)、右小野寺も隈らに対する臨時空域設定の伝達に当つて格別ジエツトルートについて注意を与えなかつたことが認められ、これらの事情が隈らの飛行制限空域内への侵入の遠因をなしたことは推測に難くないが、右の事情は松島派遣隊の飛行訓練における安全配慮の不徹底さ、社撰さを示すものであつて、そのこと自体強く非難さるべきことではあつても、そのことの故にいささかも隈の見張り義務を軽減すべき事由となるものではない。
そして、隈が前記のとおり、ジエツトルートJ11Lが盛岡あたりを通つていると思つていたとしても、教官としての地位にかんがみその誤認自体非難さるべきであり、右松島派遣隊における安全配慮の不徹底さと相まつて、右認識のずれ自体、ジエツトルート近傍における航行の危険性に対する配慮の欠如の徴表とみるべきである。
また、<証拠省略>によれば、機動隊形による編隊飛行は哨戒体勢であつて、索敵のための見回し(ルツクアラウンド)は右機動隊形に不可欠のものであることが認められ、そうだとすれば、編隊の長であり、教官である隈にとつて、前記広範囲の見張りが困難なものとはいえない。
以上の次第で、隈は、本件機動隊形の編隊飛行訓練の教官として、本件ジエツトルート近傍を航行するに際し、編隊機が民間航空機に接触しないよう特に厳しい前示見張り義務を負い、かつその義務の遂行を期待しうる事情にあつたものということができる。
(3) 訓練生市川の見張り義務
<証拠省略>によれば、市川は、昭和四三年三月航空自衛隊に入隊し、第一、第二初級操縦課程、基本操縦課程(T33)を終了し、基本隊形、疎開隊形、単縦陣隊形による曲技飛行を経験し、この間前示操縦士の資格(PJ陸単三〇トン未満航空従事者技能証明)を取得し、相当急激な上昇、下降、旋回、高度二万五〇〇〇フイート位の訓練も経験し、二等空曹として、同四六年五月八日第一航空団第一飛行隊に所属して戦闘機操縦課程の履習を始め、同年七月一日から松島派遣隊飛行隊に配属され、引き続き、基本隊形、単縦陣隊形(曲技飛行を含む)、梯形隊形、疎開隊形の各編隊飛行訓練を受けたうえ、事故当日の午前中、初めて機動隊形による編隊飛行訓練を受けたことが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
従つて、市川は、F-86Fジエツト戦闘機の単独操縦者として、前示一般的に要請される見張り義務すなわち常時少くとも自機の進行方向の左右各七〇度までの範囲を見張るべきことは当然であり、編隊飛行訓練において前記のとおり教官の見張りによつて、その安全が保護されているからといつて、航空機の操縦者として一般的に要求される程度の右見張り義務を免れえないことは論を待たないところである。
被告は、編隊飛行における他機に対する見張りは、編隊長機たる教官機が自機の進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)について行つておれば十分であると主張し、<証拠省略>中には、市川は、見張りを行うことは非常に困難な段階にあり、編隊長機を見てこれに追従する(ステイ・ウイズ・リーダー)だけで精一杯であるから、市川に見張り義務を要求するのは無理であるとの趣旨の各供述記載部分があり、また、<証拠省略>中には、飛行訓練中は教官が見張りを行い、学生には見張りを行うことを期待していないとの趣旨の各供述記載部分がある。
しかし、前示のとおり、市川は訓練生として相当長期間相当高度の飛行経験を有していたこと、特に、<証拠省略>によれば、松島派遣隊においては、市川を含む各隊員に、飛行訓練中見張りを行うよう指導していたこと、機動隊形訓練においては、前記ステイ・ウイズ・リーダーという理念とともに、通常の航行の安全のための見張り以上の、敵機を捜索するための見回し(ルツク・アラウンド)が重要な理念として指導されていたことが認められるので、市川が、機動隊形の飛行訓練中、教官機を見失わず、これに追従することに注意を奪われ、多少見張りが困難になることがあるとしても、その故をもつて、F-86Fジエツト戦闘機の単独飛行操縦者としての前記見張り義務を免れるものでないというべきである。
ところで、<証拠省略>には、市川は、ジエツトルートJ11Lが盛岡市街の西約一〇マイルを通つていることを知つており、飛行制限空域については飛行訓練準則の教育を受けたときに知つた旨の供述記載部分があり、また、松島派遣隊のプリーフイング・ルーム内には、ジエツトルートJ11Lの記入してある「飛行制限空域図」が常時掲示されていたことは前記認定のとおりであるが、他方、前記認定のとおり、第一航空団松島派遣隊は、昭和四六年七月一日に松島基地に派遣されたばかりであること、<証拠省略>によれば、市川は、本件事故当時は、実際はジエツトルートJ11Lがどこを通つているか、また、その両側何マイルが飛行制限空域となつているかを知らなかつたのに、事故直後、被害者に対する済まないという気持から、ジエツトルートJ11Lが盛岡市街の西約一〇マイルの地点をほぼ南北に走つているはずであると述べた旨供述していること、また、当日臨時に設定された「盛岡空域」についても前記のとおり訓練責任者の指示の不充分さから、漠然と盛岡あたりという程度の認識しかなかつたことが認められることにかんがみれば、同派遣隊訓練生に対し、本件ジエツトルートないし、飛行制限空域の趣旨がどの程度徹底していたかは疑問であり、従つて、市川が本件ジエツトルートJ11L近傍ないし飛行制限空域を飛行していたからといつて、隈について前に説示したと同様の特に厳重な見張り義務の遂行を期待するのは困難というべきである。
(四) 教官機及び訓練生機から全日空機に対する視認の可能性
(1) 視認の可能性の判断要素
<証拠省略>によれば、「視界内にある物体の視認の可否は、視角の大きさ、物体の明るさ、物体の明るさと背景の明るさのコントラスト、対象物の存在の予測の有無、注意力等が関与するが、この事故の場合には、主として視角の大きさによると認められる。」とされ、<証拠省略>によれば、「視程、目標の大きさ(視角)、コントラスト、視線の動き(中心視及び中心視との関連性)及び視力は、視認性を論ずる上の必須条件である。」とされるところ、<証拠省略>によれば、接触位置周辺の気象状況は、雲高三〇〇〇フイート(約九〇〇メートル)、雲量八分の一、視程一〇キロメートル以上で有視界気象状態にあり、空中接触位置付近の高度における気象は、雲が全くない晴天で、視程も一〇キロメートル以上であつたこと、事故当時における太陽は、少なくとも全日空機及び自衛隊機相互の視認を妨げない位置にあつたこと、隈の視力は、遠距離視力が右一・二、左一・二で、近距離視力が右一・一、左一・〇であつたこと、市川の視力は、遠距離視力が右一・〇、左一・〇で、近距離視力が右一・一、左一・一であつたこと、従つて、視程及び視力に関しては、視認可能性を妨げる要因はなかつたものと認めることができる。
そこで、コントラスト及び視線の動きについては後に述べることとして、以下、まず視角の大きさを基準にした視認可能性について判断することとする。
<証拠省略>によれば、「一般的に視認に関与する要件が理想的な場合、直視して発見できる最小の視角の大きさは〇・七分(高さの視角)×〇・七分(横の視角)=〇・五分2であるが、飛行中の航空機の乗組員室にあつては視程が良好な場合であつても少なくとも〇・五分2の四倍(二分2)の大きさが必要であるとされている。」とされ、他方、<証拠省略>によれば、「視角面積が二分2というデータは、理想的条件下、最適コントラスト、目標位置に関する情報を得ているという実験室内における静的な人間の最大視認能力を推定する手掛りとはなりうるが、飛行中という動的環境下における通常の発見能力を推定する手掛りとしては、防衛庁航空医学実験隊の実施した調査研究結果が有益であり、これによれば、全日空機のような大型機を発見する基準となる視角の大きさは、接近機についての情報がある場合、発見し易くなる視角は六ないし八分(約一〇海里の距離)であり、接近機についての情報がない場合、発見し易くなる視角は一二ないし一七分(約五海里の距離)である。」とされている。
ところで、ジエツトルート近傍ないし飛行制限空域付近においては、すでに認定したように、民間旅客機の飛行頻度が相当高いのであるから、ジエツトルート近傍ないし飛行制限空域付近を飛行しているとの認識がある場合には、<証拠省略>にいう接近機についての情報がある場合と同視しうるから、大型機については少くとも視角の大きさが六ないし八分あれば視認可能であるというべきであり、右の認識がない場合には、少くとも接近機についての情報がない場合の一二ないし一七分の視角の大きさがあれば視認可能であるというべきである。
(2) 教官機から全日空機に対する視認の可能性
すでに、一2(四)(本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路)において認定した接触約四四秒前から接触時までの教官機と全日空機との相対飛行経路(別紙図面五の三)を前提として、教官機から全日空機に対する視認の可能性について検討する。
隈がF・86Fジエツト戦闘機操縦者として自機の航行の安全のために常時見張るべき範囲は、前説示のとおり、少くとも自機の進行方向の左右各七〇度の範囲内であるところ、<証拠省略>によれば、接触四四秒前から三一秒前までの間、全日空機は教官機の右方六六・六度ないし六九・五度、上方五・五度ないし九・四度とほぼ一定の方向にあつたから、隈が前記通常の見張り義務を尽していても、隈の全日空機に対する視認は可能であつたものと認めることができ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
そしてまた、ジエツトルート近傍ないし飛行制限空域付近においては、隈は、編隊全体の航行の安全のために、自機の進行方向の左右各一三二度までの範囲を見張るべきこと前説示のとおりであるところ、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から一三秒前までの間、全日空機は教官機の右方七四・八度ないし二二一・一度の方向にあり、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で全日空機は教官機の右方七八度、上方一〇度、接触二〇秒前の時点で右方一〇六度、下方一一度、接触一四秒前の時点で右方一三〇度、上方三度、接触七秒前の時点で右方一六四度、上方二五度の位置にあつたとされていることが認められる。
そうすると、<証拠省略>によれば接触三〇秒前から一三秒前まで、事故調査報告書によれば接触三〇秒前から一四秒前まで、従つて少くとも接触三〇秒前から一四秒前までの間、全日空機は、隈の見張るべき進向方向の左右一三二度内の範囲にあつたものと認めることができるので、隈が前記加重された見張り義務を尽していたならば、右の間全日空機を視認することが可能であつたと推認しうる。
また、接触三〇秒前以降の隈の上下の視野についても、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から一四秒前までの間、全日空機は教官機から視認可能な位置にあつたことが認められるし、<証拠省略>によれば、訓練生機は、接触四四秒前以降一二秒前まで、教官機から見て全日空機と同方向にあつたこと、従つて、隈が訓練生機の周辺空域を監視しておれば、訓練生機と同方向にあつた全日空機を視認することが可能であつたことが認められる。
次に、隈からみた全日空機の視角の大きさについて検討すると、<証拠省略>によれば、接触四四秒前の時点で胴体視角二二・五四分、翼視角九・六分、距離は七九三六・六メートル(これは五海里以内)であり、その後、徐々に視角の大きさを増大し、接触三一秒前の時点で胴体視角二二・三八分、翼視角一六・三〇分、距離は四六八四・四メートル(これは三海里以内)であることを認めることができる。
また、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で教官機から見た全日空機の視角の大きさ(面積)は八一分2、距離は四・三キロメートル、接触二〇秒前の時点で視角の大きさは一八〇分2、距離は二・五キロメートル、接触一四秒前の時点で視角の大きさは五〇〇分2、距離は一・八キロメートルであるとされ、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で教官機から見た全日空機の視角の大きさは、胴体視角二三・四七分、翼視角一七・三四分、距離は四四三六・七メートル、その後、徐々に視角の大きさ増大し、接触一四秒前の時点で胴体視角四二・五九分、翼視角一度一・五五分、距離は一七二四・六メートルであるとされていることが認められる。
そして、隈がジエツトルート近傍ないし飛行制限空域付近を飛行していることを認識していたか、または認識すべきであつたことはすでに認定したとおりであり、従つて全日空機のような大型機については、視角の大きさが六ないし八分(一〇海里の距離)であれば視認可能であるということになるから、隈は、視角の大きさの点から、少なくとも接触四四秒前から一四秒前までの間、全日空機を視認することが可能であつたと認めることができる。
なお、<証拠省略>中には、「コントラストは視認性を論ずる上において重要な因子の一つであり、コントラスト〇、すなわち背景との明るさの差のない場合には、目標の大きさがいかに大きくとも、発見することは不可能である。そして、航空機の翼下面の暗い部分(コントラスト〇・六)が明るい胴体反射面(コントラスト三・〇)と同一の視認性を保つためには、約6.0×102フツト・ランバートの背景において約二倍の目標の大きさを要する。」との記載があるが、前示視界状況、全日空機、自衛隊機に対する太陽の位置関係等から判断すれば、本件の場合、コントラストが視認を著しく困難にするような状況ではなかつたものと推認することができ、右推認を妨げる事実を認めるに足りる証拠はない。
また、<証拠省略>中には、「見張りに専念している状態の視線は、自機とほとんど同高度の水平方向に非常に速く移動するが、目標物の大きさ、コントラストが良好であつても、その上を通過する視線移動速度が毎秒五〇度を越える場合、もしくは視線運動軌跡から上下に三〇度以上離れている目標物は見落される可能性が大となる。」との記載があり、前記のとおり、隈が進行方向の左右各七〇度の範囲のみならず、進行方向左右各一三二度までの範囲の空域についても見張りを行わなければならないことを考えれば、隈の視線移動速度は、相当速くならざるを得ないことが窮える。
しかし、すでに認定したように、接触四四秒前から三〇秒前までの間は、教官機及び訓練生機は水平直線飛行をしていたのであるから、見張りについて相当時間的な余裕があつたということができ、視線移動速度を考慮しても、前記見張り義務を銘記し、現実にこれを尽くしていたならば、全日空機に対する視認は可能であつたと考えられる。
また、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から二二秒前までの間は、視角の大きさの点から、訓練生機に注意をとられても、訓練生機の左方に何らかの目標の存在を知覚しうるというのであるから、視線移動速度の速さが特に視認を困難にするものと認めることはできない。
そして、<証拠省略>中には、「接触二二秒前以降、隈が視線を進行方向の右一五〇度の訓練生機から一転して左後方に向けて訓練生機の出現を待つている場合には視認は不可能である。」との記載があるが、本件ジエツトルート近傍における編隊飛行の前示危険度を考慮すれば、訓練生機が教官機の左右各一五〇度より後方のいわゆる死角に入つた後も前示左右一三二度の範囲の見張り義務を免れるものではないので、右の見解は採用できない。そして<証拠省略>によれば、教官機から全日空機に対する視角の大きさは、接触二二秒前から一四秒前まで、胴体視角は三三・四四分ないし四二・五九分、翼視角は三一・二八分ないし一度一・五五分と相当な大きさとなつていることが認められるので、隈が厳重な見張りを尽くしておれば、視認は容易に可能であつたといえる。
なお、原告らは、自衛隊機の操縦室はオープンで、バツクミラーを備えるなど、本来他機を発見するための構造と機能を有しており、本件の場合、視角の大きさから見て接触二分二〇秒前以降、自衛隊機から全日空機を視認することが可能であつたと主張するが、接触四五秒前以前については、自衛隊機と全日空機の相対飛行経路が明らかでないことは前示のとおりであるから、視認可能性の判断はできないし、<証拠省略>中には、バツクミラーにより他機を発見したことがある旨の供述があるが、<証拠省略>によれば、右は、一〇〇〇フイート(約三〇〇メートル)の至近距離において発見したものにすぎないことが認められるし、<証拠省略>及び弁論の全趣旨を総合すれば、自衛隊機の操縦室の構造及びバツクミラーが特に視認を容易にする程のものとはいえない。
結局、前記認定の時間以上に、隈から全日空機に対する視認の可能性を認めるに足りる証拠はない。
(3) 訓練生機から全日空機に対する視認の可能性
前記、一2(四)(本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路)において認定した接触約四四秒前から接触時までの訓練生機と全日空機との相対飛行経路(別紙図面五の三)を前提として、訓練生機から全日空機に対する視認の可能性について検討する。
市川がF・86Fジエツト戦闘機操縦者として自機の航行の安全のために常時見張るべき範囲は、少くとも自機の進行方向の左右各七〇度の範囲内であることは前説示のとおりであり、<証拠省略>によれば、接触四四秒前から三一秒前までの間、全日空機は訓練生機の右方五四・七度ないし五八・一度、下方一・二度ないし二・二度とほぼ一定の方向にあつたから、市川が右見張り義務を尽くしていたならば全日空機を視認することが可能であつたものと認めることができ、他に、右認定を左右するに足りる証拠はない。
そして、<証拠省略>によれば、全日空機は、接触三〇秒前の時点で訓練生機の右方五八度、下方三度の位置にあり、二九秒前から二四秒前までの間は右方七〇度以内の範囲にあるものの訓練生機の機体の陰にかくれて見えず、二三秒前以降は右方七〇度の範囲の外側になつてしまうとされ、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から二五秒までの間、全日空機は訓練生機の右方四九・三度から六八・〇度の方向にあり、二四秒前以降は右方七〇度の範囲の外側になつてしまうとされていることが認められる。
そうすると、接触三〇秒前の時点では、全日空機は市川の見張るべき進向方向の右七〇度内の範囲にあつて視認が可能であるが、接触二九秒前以降は視認の可能性がなかつたものと認めることができる。
次に、市川からみた全日空機の視角の大きさについて検討すると、<証拠省略>によれば、訓練生機から見た全日空機の視角の大きさは、接触四四秒前の時点で胴体視角一六・二四分、翼視角七・四八分、距離は七四八二・一メートル(これは五海里以内)であり、その後、徐々に視角の大きさを増大し、接触三一秒前の時点で胴体視角三〇・一一分、翼視角一二・三四分、距離は四二〇六・九メートル(これは三海里以内)であることを認めることができる。
また、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で訓練生機から見た全日空機の視角の大きさ(面積)は二一〇分2、距離は三・一キロメートルであるとされ、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で訓練生機から見た全日空機の視角の大きさは、胴体視角三二・一五分、翼視角一三・九分、距離は三九五六・二メートルであるとされていることが認められる。
そして、市川がジエツトルート近傍ないし飛行制限空域付近を飛行していることを認識していなかつたことはすでに認定したとおりであるが、接近機についての情報がない場合でも、全日空機のような大型機については、視角が一二ないし一七分(約五海里の距離)であれば視認が可能であるということになるから、市川は、接触四四秒前から三〇秒前までの間、視角の点からも全日空機を視認することができたものと認めることができる。
なお、<証拠省略>中には、「市川は、接触四五秒前から三〇秒前までの間、教官機との間隔、高度の保持及び自機の姿勢、速度の維持のため外界に対する見張りの余裕はなく、教官機から視線をはなすことは考えられないので、教官機と反対側にある全日空機を視認することは不可能であつたと考えられる。」との記載があるが、すでに認定したように市川は、単独操縦の能力を有していたのであるから、航空機操縦者として必要な見張り義務を免れるものではなく、機動隊形の飛行訓練のため教官機の位置を絶えず確認しなければならないとしてもそのことによつて前記通常の見張り義務を免れ又はその義務を果すことが期待できなくなるものとは考えられないので、右見解は採用できない。しかも、訓練生機は、接触四四秒前から約一五秒間水平直線飛行を行つていたこと、水平直線飛行中は旋回中に比較して見張りを行いやすいことにかんがみれば、市川は、接触四四秒前から三〇秒前までの間、前記見張り義務を尽くせば、全日空機を視認することが可能であつたといえる。
(4) 結論
以上の次第で、隈は、本件接触四四秒前から一四秒前までの間、市川は、本件接触四四秒前から三〇秒前までの間、それぞれ全日空機を視認することが可能であつたということができる。
(五) 隈及び市川の衝突予見可能性及び衝突回避可能性
(1) 隈及び市川の衝突予見可能性
前記一2(四)(本件接触三分前から接触時までの相対飛行経路)で認定した教官機及び訓練生機と全日空機との相対飛行経路を前提とすれば、全日空機と訓練生機双方は、接触四四秒前以降、互に回避操作をしないでそのまま進行すれば前方で交差するような飛行経路にあつたこと、前記二3(四)(教官機及び訓練生機からの全日空機の視認可能性)で認定したように、接触四四秒前から三一秒前までの間、全日空機は教官機の右方六六・六度ないし六九・五度とほぼ一定の方向にあつて胴体視角及び翼視角をともに増大させつつあつたこと、接触三〇秒前以降は、全日空機は徐々に教官機の横から右後方へと位置を変えつつあつたものの、隈が訓練生機に注意をとられても、訓練生機の左方に何らかの物体の存在を知覚しうるほどに視角の大きさを増大させていたこと、そして、接触四四秒前から二二秒前までの間は数秒間の視認の継続により、また、二二秒前以降は視認していたならば直ちに全日空機と訓練生機との接触の予見が可能であつたと考えられる(<証拠省略>)のであるから、これらの点を合わせ考えれば、隈は、接触四四秒前から一四秒前までの間において、全日空機を視認しておれば、全日空機と訓練生機との衝突を容易に予見することができたものと認めることができる。
また、前記のとおり、全日空機と訓練生機の飛行経路が接触四四秒前以降、前方で交差するような飛行経路であつたこと、前記二3(四)(教官機及び訓練生機からの全日空機の視認可能性)で認定したように、接触四四秒前から三一秒前までの間、全日空機は訓練生機の右方五四・七度ないし五八・一度、接触三〇秒前は右方四九・三度ないし五八度とほぼ一定の方向にあり、胴体視角及び翼視角をともに増大させつつあつたこと、そして、右視角の大きさは、その時点における教官機から見た全日空機の視角の大きさよりも大きいこと(すなわち、訓練生機と全日空機の距離が教官機と全日空機との距離よりも近いこと)、従つて市川は、数秒間の視認の継続により自機と全日空機との接触の予見は可能であつたことを合わせ考えれば、市川は、接触四四秒前から三〇秒前までの間において、全日空機を視認しておれば、全日空機と自機との衝突を予見することができたものと認めることができる。
(2) 隈及び市川の衝突回避可能性
<証拠省略>によれば、空中衝突回避のための視覚及び反応時間については、モーセリーのデータが一般に用いられており、これによれば、視認に一・〇四五秒、判断に二・〇秒、操作に〇・四秒、機体反応に二・〇秒、合計五・四四五秒を要すること、以上の時間は、接近機に関する情報が全くなく、何等かの映像の存在を認め、それを接近する航空機と認知し、回避方向を判断して回避し終えるまでの時間を示したものであること、機体反応に要する二・〇秒は、F・86F等の小型戦闘機には通用するが、大型機においては負荷するG(垂直加速度)により考慮する必要があること、他の文献によれば、判断に要する時間を〇・五秒とするデータもあるが、他方、SST(超音速旅客機)をモデルとしたロツキードグループのデータは、大型機の場合、機体反応に要する時間を三・五秒とし、合計六・九四五秒を要するとしているものもあることが認められる。
そうすると、F・86Fジエツト戦闘機操縦者が他の航空機との衝突を回避するために要する時間は、視認から回避を終了するまでに、六、七秒あれば足りるということができる。
ところで、隈が全日空機を視認し、全日空機と訓練生機との接触を予見しえた場合、隈は市川に対し、無線通信によつて回避操作を行うよう指示し(本件事故直前に現に行われている。)、市川が右指示を理解して回避操作を開始するまで、通常二、三秒を要するものと解されるので、前記視認から回避終了までに要する時間にこれを加えると、隈が全日空機を視認してから訓練生機が回避を終了するまでに要する時間は、約一〇秒もあれば足りるということができる。
また、市川が全日空機を視認してから自機の回避を終了するまでに要する時間は、約六、七秒あれば足りるということができる。
(3) 結論
以上の次第で、隈は、接触前四四秒前から一四秒前までの間において、全日空機を視認し、全日空機と訓練生機との接触を予見し、市川に対し適切な回避操作の指示を与えておれば、本件衝突事故の発生を十分回避しえたということができ、市川は、接触四四秒前から三〇秒前までの間において、全日空機を視認し、自機との接触を予見し、適切な回避操作を行つておれば、本件衝突事故の発生を十分回避しえたということができる。
(六) 隈及び市川の航行上の過失
以上のとおり、隈は本件自衛隊機の機動隊形の編隊飛行訓練の教官として、市川は自衛隊機の単独操縦者として、それぞれ前示各見張り義務を負い、右隈らがそれぞれの見張り義務を尽くしていたならば、全日空機と訓練生機との接触事故を早期に予見することができたのであるから、隈らはこれを予見して訓練生機の適切な回避操作を行うべきであり、これによつて接触事故を未然に防止することができたのに、隈らはそれぞれの義務を怠り、訓練生機を慢然進行せしめた過失により、全日空機の発見が遅れ、前示のとおり訓練生機がようやく回避操作を行つたときには既に間に合わず、本件接触事故となつたのであるから、隈らにそれぞれ航行上の過失があつたことは明らかである。
4 結論
以上の次第で、被告国は、国家賠償法第一条に基づき、自衛隊員である隈らがその飛行訓練中、過失によつて惹起した本件接触事故による損害を賠償すべき責任を負わねばならない。
三 被告主張の全日空機操縦者らの過失並びに反訴請求原因について
1 民法第七一五条による責任
全日空機機長亡川西三郎、副操縦士亡辻和彦及び航空機関士亡ドン・ミカエル・カーペンターが原告全日空の被用者であり、本件事故が、右三名(以下、全日空機操縦者らという。)による札幌・東京間の定期便の航行という原告全日空の事業の執行につき生じたものであることは当事者間に争いがない。
2 全日空機操縦者らの過失
被告は、本件事故当時、事故現場付近は有視界気象状態にあつたから、全日空機操縦者らには、航空機の運行の安全のため見張りをし、訓練生機を早期に発見し、衝突回避の操作を行うべき注意義務があつたのにこれを怠り、訓練生機を視認することなく慢然直進した過失により、訓練生機の後方からこれに追突して本件事故を惹起したと主張するので、以下全日空機操縦者らの過失の有無について検討する。
(一) 有視界気象状態における見張り義務
本件事故当時の空中接触地点付近の気象条件が晴天で、視程も一〇キロメートル以上の有視界気象状態にあつたことは当事者間に争いがない。
そして、有視界気象状態においては、航空機操縦者が飛行方式のいかんを問わず計器飛行を行つてはならず(当時の航空法第九四条)、見張り義務を負うことは前記二3(一)(有視界飛行方式による航空機の見張り義務及び衝突回避義務)において説示したとおりであり、有視界飛行方式による航空機のみが他機との衝突防止について絶対の責任を負うとする原告らの主張は失当である。
<証拠省略>を総合すれば、全日空機の操縦室の窓は左右に比較的広く設けられ、後記視認を妨げるものではなく、本件事故当時自動操縦装置により高度二万八〇〇〇フイートの同一高度、同一方位を保ちつつ航行していたこと、離着陸の場合(この場合にも前方に対する見張り義務のあることは勿論である。)に比較すると心身共に見張りの余裕があること、全日空機の操縦者は、F-86Fジエツト戦闘機操縦者のようなヘツドレストや救命具等の装備を着用していないこと、また、全日空機は機長と副操縦士の二人で操縦を行うのであるから、正面から左右の見張りを分担ないし相互に補完することが可能であることが認められるから、全日空機の機長及び副操縦士は、航空機の操縦者として一般に要求される程度の見張り義務を負つていたものというべきである。
原告らは、仮に計器飛行方式による航空機の操縦者が航行の安全上見張り義務を負うとしても、それは進行方向に対するごく限られた範囲即ち注視野の範囲に限定されるものにすぎないと主張し、<証拠省略>によれば、「注視野とは、固視点を中心とする四四度から五〇度の範囲をいう。」とされていることが認められるが、航空機操縦者の見張り義務は前示のとおり航行の安全の見地から生ずるものであるから、航空機操縦者として一般的に見張りの可能性のある限り進行方向に対する見張りを行うべきであり、このような可能性を離れて原告ら主張のように見張りの範囲を限定すべき理由は存しないというべきである。そして、<証拠省略>によれば、飛行中の視野を論ずる場合は、頭部を固定した場合の両眼視の可能な範囲(左右各四四度ないし六〇度)を基準とするのは妥当でなく(操縦者が頭部を固定しなければならない理由は存しない)、頭部を回旋した場合の実際注視野は最大左右各一三二度までであることが認められるので、原告らの右主張はこの点からも失当である。
もつとも、<証拠省略>中には、「離陸から定常飛行に至るまで、或いは定常飛行から着陸までの間は、ほぼ自分の真横から前全部(従つて一八〇度の範囲)を見る努力をする。定常飛行になると進行方向の左右各四五度、合計九〇度の範囲を集約的に見る。」との供述があるが、他機が前方九〇度の範囲からのみ進行してくるものとは限らないので、この範囲の見張りしか行わない場合には、相互に相手機を視認しないまま衝突することがありうることは明らかであるから、進行方向の左右各四五度の範囲のみの見張りを行えば足りると解するのも合理的でなく、前記定常飛行中の心身両面の余裕を考えれば、離着陸時より見張りの範囲が軽減されるものと考えるべきではない。もつとも、定常飛行中は、離着陸時に比較して障害物が少いので、それだけ危険性が少なく、従つて操縦者の心理的な負担ないし緊張度が少なくなることは容易に推察しうるところであるが(右<証拠省略>はこのようなものとして読むべきであろう。)、このことが見張るべき範囲を限定し得る理由となるものでないことは明らかである。
以上の次第で、全日空機の機長及び副操縦士が計器飛行方式による飛行中見張り義務を否定ないし軽減されるとする原告らの主張は理由がなく、全日空機操縦者は自機の航行の安全を図るため、航空機操縦者として通常要求されるところの、少くとも進行方向の左右各七〇度までの範囲については常時見張りを行うべきである(前記認定の市川の見張り義務と同様)と解するのが相当である。
以下、この見地から、本件事故時における全日空操縦者の視認の可能性を具体的に検討することとする。
(二) 全日空機から訓練生機に対する視認の可能性
(1) 被告主張の相対飛行経路を前提とした視認の可能性
被告主張の相対飛行経路を証拠上認めることができないことは、前記1・2(四)(本件接触三分前から接触時までの相対飛行経路)において説示したとおりであるから、これを前提とした全日空操縦者の可能性を論ずることはできない。
従つて被告主張の相対飛行経路を前提とする被告の主たる主張は採用のかぎりでない。
(2) 原告ら主張の相対飛行経路を前提とした視野の可能性
すでに一2(四)(本件接触約三分前から接触時までの相対飛行経路)において認定した接触四四秒前から接触時までの全日空機と訓練生機との相対飛行経路(別紙図面五の三)を前提として、全日空機から訓練生機に対する視認の可能性について検討する。
<証拠省略>によれば、防衛庁航空医学実験隊の実施した調査研究の結果、F-86Fジエツト戦闘機のような小型機を発見する基準となる視角の大きさは、接近機についての情報がある場合、発見し易くなる視角は五ないし七分(約三海里の距離)であり、接近機についての情報がない場合、発見し易くなる視角は七・五分ないし一〇・五分(約二海里の距離)であることが判明したことが認められる。
ところで、全日空機は、前記一2(二)(本件事故に至るまでの全日空機の飛行経路)及び (三) (空中接触地点)で認定したように、岩手山付近から雫石町付近にかけて、ジエツトルートJ11L近傍(ジエツトルートから約六キロメートル西側)を飛行していたのであるから、全日空機操縦者としては、通常、有視界飛行方式の航空機が付近を飛行しているものと予想しえたとは考えられないので、全日空機の機長及び副操縦士が訓練生機を視認することが可能になるのは、接近機についての情報がない場合と同様、訓練生機の視角の大きさが七・五分ないし一〇・五分となつた時点以降であるというべきである。
そして<証拠省略>によれば、接触三〇秒前の時点で、全日空機から見た訓練生機の視角の大きさは、胴体視角八・二四分、翼視角一〇・四五分であり、その後、徐々に視角の大きさを増大させていたことが認められるから、視角の大きさという観点からは、接触三〇秒前以降、全日空機から訓練生機を視認することが可能であつたと認めることができる。
<証拠省略>によれば、訓練生機は、接触三〇秒前の時点で全日空機の左方六五度、上方三度、接触二〇秒前の時点で左方六五度、上方四度、接触一四秒前の時点で左方六三度、上方四度、接触七秒前の時点で左方六〇度、上方五度の位置にあつたとされ、<証拠省略>によつても、訓練生機は、接触七秒前から四秒前までの間、全日空機の左方六〇度ないし六五度の方向にあつたように図示されていることが認められる。また、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から五秒前までの間、訓練生機は全日空機の左方六二・二度ないし六八・七度とほぼ一定の方向にあつたとされていることが認められるから、少なくとも接触三〇秒前から五秒前までの間、訓練生機は、全日空機の機長及び副操縦士が見張るべき進行方向の左右各七〇度の範囲内にあつたものと認めることができる。
また、上下の視野に関しても、<証拠省略>によれば、訓練生機は全日空機から見て、接触三〇秒前から四秒前までの間、上方三度ないし五度余りの方向、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前ないし五秒前までの間、上方二・三度ないし三・九度の方向と、極めて見易い位置にあつたものと認めることができる。
そうすると、全日空機の機長及び副操縦士は、少なくとも接触三〇秒前から五秒前までの間、視野の点からも訓練生機を視認することが可能であつたものと認めることができる。
(三) 全日空機操縦者らの衝突の予見可能性
接触三〇秒前から五秒前までの間、訓練生機が全日空機の左方六〇度ないし六八・七度、上方二・三度ないし五度余とほぼ一定の位置にあつて、時間の経過とともに視角の大きさを増大させていたことは前記認定のとおりである。
ところで、いわゆる衝突コース(コリジヨン・コース)といわれるものは、或る船舶ないし航空機が、その位置を殆ど変えることなく次第に船影(機影)を大きくしつつ接近するように見え、進行方向前方において衝突するに至るようなコースを意味するものであるところ、右訓練生機は、全日空機から見て、接触三〇秒前以降、いわゆる衝突コースにあつたものと認めることができる。(<証拠省略>によれば、事故調査委員後藤安二も、接触三〇秒前以降、コリジヨン・コースにあつたことを認める旨供述していることが認められる。)。
原告らは、訓練生機は、接触三〇秒前以降、非定常運動をしていたから衝突コースにあつたとは言えないと主張し、<証拠省略>によれば、訓練生機は、接触二九秒前以降左旋回を開始し、バンク角を六〇度から徐々にゆるめて二〇度まで変化させ、高度と速度も多少変化させていたことは認められるけれども、全日空機からの訓練生機の見え方としては、前記のとおり、接触三〇秒前から五秒前までの間、殆ど一定の位置に見えたのであるから、訓練生機がバンク角を変化させ、高度と速度を多少変化させていたとしても、訓練生機が衝突コースにあつたと認めることの妨げとなるものではない。
そして、<証拠省略>によれば、接触三〇秒前から二〇秒前までの間、数秒間の視認により、典型的衝突コースにあることの予見が可能であり、二〇秒前以降は視認すれば瞬時に接触が切迫していることの予見が可能であつたことを認めることができる。
そうすると、全日空機の機長及び副操縦士は、接触三〇秒前から五秒前までの間、前記見張りを行うことによつて自機と訓練生機との衝突を予見することが容易に可能であつたというべきである。
(四) 全日空機操縦者らの衝突回避義務
以上のような次第で、全日空機の機長及び副操縦士は、訓練生機との衝突を予見しえたのであるから、衝突を回避すべき義務を負うことはいうまでもない。
もつとも、原告らは、接触直前における全日空機と訓練生機との位置関係からすれば、全日空機に進路の優先権があつたから、訓練生機において専ら衝突回避を行うべきであり、全日空機に回避義務はない旨の主張をし、<証拠省略>には、本件の場合、進路権に関する航空法施行規則第一八〇条、第一八一条及び第一八六条の適用があり、全日空機が進路権を有するとの記載があるが、たとえ、全日空機に進路権があつたとしても、訓練生機が進路を譲らない場合にも、そのまま進行すれば接触することが予想出来るのに、回避操作を行わないで接触してよいという道理はありえない。
しかも、そもそも、航空法施行規則第一八〇条及び第一八一条の進路権の規定は、双互の進路が交叉するか又は接近する場合であつても、なお衝突ないし接触までに時間的余裕のある場合で、相手機の避譲が期待できる段階を規律するものであつて、両機が更に進行して、衝突のおそれが具体化した段階では、もはや進路権の規定の適用の余地はなく、同規則第一八七条の間隔維持の義務の規定が優先適用されるべきものと解するのが相当であり、進路権の規定は衝突回避義務を否定軽減するものではないというべきである。
従つて、衝突の危険が具体化した段階での本件全日空機側の衝突回避義務がないとする原告らの主張は理由がなく失当といわねばならない。
(五) 全日空機操縦者らの衝突回避の可能性
接近機に関する情報が全くない場合、他機を視認してから回避操作を行い、回避し終えるまでの所要時間は、小型戦闘機の場合、通常五・四四五秒、大型機の場合、通常六・九四五秒であることは、隈及び市川についての衝突回避可能性を検討した際、認定したとおりである。
ところで、本件全日空機の回避可能性の判断に関し、<証拠省略>には、戦闘機が近づいてきた場合は、インターセプト(国籍不明機の識別のため戦闘機が接近、監視する方法)であると考えられるから、回避せずにそのまま水平飛行を継続すべきであり、本件の場合も全日空機操縦者は、インターセプトであると考えたのではないかとの供述部分がある。
しかしながら、<証拠省略>によれば、インターセプトを行う場合は、戦闘機は国籍不明機の後方から接近すること、飛行計画を提出して管制承認を受けている民間旅客機をインターセプトすることは通常ありえないことが認められるから、<証拠省略>は信用することができないし、前記認定の本件相対飛行経路のように、訓練生機が全日空機の左前方から接近してくるような場合にインターセプトであると考える余地はないものというべきである。
また、<証拠省略>中には、相手機が小型ジエツト機であるときは衝突の可能性の判断が困難である旨の記載があり、<証拠省略>中には、訓練生機がどのように動くかわからないから回避すべきか否か、どちらに回避すべきかの判断がつきにくい旨の供述があり、<証拠省略>中には、接触二九秒前の時点では小型戦闘機の行動の予測はつきにくい旨の供述記載があり、全日空機操縦者にとつては、接触三〇秒前からしばらくの間は、相手機が定常飛行している場合と比較すれば、接触の可能性を判断するのにやや時間を要することが認められる。
(なお、前記のとおり、黒田鑑定書は、数秒間の視認の継続を要するものとしている。)
しかし、前記認定のとおり、接触二〇秒前以降になると、視認していたとすれば接触が切迫していることの予見は容易であるから、右接触三〇秒前ころと比較すれば、判断に要する時間はさらに少なくてすむことが明らかである。
また、<証拠省略>によれば、本件全日空機には乗客が一五五名塔乗しており、垂直加速度の変化の大きい急激な操作は身体・健康上望ましいものとはいえず、小型ジエツト戦闘機と同様の機体反応時間で即座に回避しうるものではないことが認められる。
被告は、この点に関し、本件全日空機と略性能が同じである航空自衛隊の輸送機C-1の機体反応に要する時間に関するデータ<証拠省略>が全日空機についても妥当するとし、視認から回避可能となるまで四・四四秒(仮に視認しておれば、回避可能となるまで三・四秒)で足りると主張するが、民間旅客機である全日空機と戦略輸送機であるC-1とを同様に論ずることは妥当ではない(両機種の構造性能の比較についてこれを明らかにする資料はない)。
以上を総合して判断すると、全日空機操縦者が訓練生機を視認してから回避を終了するまでに要する時間は、大型機の場合に通常要する時間(前記六・九四五秒)よりもさらに二、三秒(接触二〇秒前以降)ないし四、五秒(接触三〇秒前から二〇秒前まで)多い、一〇秒ないし一二秒を必要とするものと考えられるが、これだけの時間があれば回避は可能であるということができる。(ちなみに、<証拠省略>によれば全日空機は訓練生機より時速約八〇キロメートル優速であつたにすぎないことが認められる。)
そして、<証拠省略>によれば、民間旅客機の操縦者としては、本件衝突前の全日空機の航行状態にあれば、減速して訓練生機の動きをよく見た上で訓練生機の動きに応じた適切な回避操作を行うか、または、訓練生機との距離が一海里ほどになり、同機が左バンクをとつて左旋回中であることが確認できるようになれば、右へ回避するための操作をするのが通常と考えられることが認められる(航空法施行規則第一八五条参照)。
また、<証拠省略>には、高速で飛行している場合には、減速しようとしてもすぐにはできないとの供述部分があるが、右供述にいう「すぐ」というのがどの程度の時間を意味するのか明らかではなく、前記のとおり、接触三〇秒前以降は、全日空機から訓練生機を視認することが可能であつたのであるから、減速して訓練生機の動きを見るだけの時間的余裕がなかつたものとはとうてい認め難いし、また、<証拠省略>によれば、全日空機と訓練生機との距離は、接触二〇秒前で一・四キロメートル、<証拠省略>によれば、接触一八秒前に一六五七・九メートルと、いずれも一海里以内の距離に近づいており、少なくとも接触一八秒前以降においては、全日空機から見て訓練生機が左旋回中であることを十分認識しえたことが認められ、従つて、全日空機の機首を右に向けて回避すべきであるとの判断は可能であつたということができる。
そうすると、結局、全日空機の機長及び副操縦士は、接触三〇秒前から一〇秒前までの間において、訓練生機を視認し、自機との衝突を予見し、減速して訓練生機の動きをよく見た上で機首を右に向けるなど適切な衝突回避操作をしておれば、本件衝突事故の発生を十分回避しえたということができる。
(六) 全日空機操縦者らの航行上の過失
以上の次第で、全日空機操縦者らには航行の安全上進行方向を見張り、その安全を確認する義務があり、その義務を尽くしておれば、訓練生機の視認及びこれとの衝突の予見が可能であり、かつ衝突を回避しうる情況にあつたのであるから、衝突回避をなすべき義務があつたことも明らかである。
ところで、<証拠省略>によれば、全日空機は接触時まで何らの回避操作を行つていないこと、接触七秒前に全日空機操縦者が訓練生機を視認しておれば、危険を感じ、通常は多少とも回避操作を行うはずであること、各管制区管制所の交信記録に全日空機操縦者からの他機との接近、接触を告げる音声が何ら収録されていないこと、ジエツトルートには他の航空機は入つて来ないものと軽信し、航空機関士等が計器の異常を告げたり、警報装置が何らかのはずみで作動したりした場合、操縦者らが、しばらくその方を見て一五秒ないし二〇秒を過ごしてしまうことも、ままあることが認められ、前記一2(五)(接触時刻)で詳しく認定したように、全日空機操縦者らが接触七秒前から訓練生機を視認していたとする推定が接触時刻に照らして是認し得ないことに徴すれば、全日空機操縦者らは、接触するまで、全く訓練生機を視認していなかつたと推認せざるを得ない。
してみると、全日空機操縦者らには、前記見張り義務、衝突回避義務を怠り、全日空機を慢然進行せしめた過失があることは明白であり、本件事故はこれによつて生じたものということができる。
3 結論
以上の次第で、原告全日空は、民法第七一五条、七〇九条に基づき、反訴原告に対し、全日空機の運行業務に従事していた亡川西機長らの過失によつて惹起した本件接触事故による損害を賠償すべき責任を有し、かつ、右過失は、後記のとおり、原告らの被告に対する損害賠償額の算定に当つて斟酌されねばならない。
四 過失割合及びこれによる負担割合
本件事故は、前記二3(隈及び市川の過失)及び三2(全日空機操縦者らの過失)で認定したように、被告の自衛隊員隈及び市川の過失と原告全日空の機長及び副操縦士の過失が競合して生じたものである。
そこで、双方の過失割合につき判断する。
本件事故に関する過失割合の認定に当つて、まず、見張り義務及び衝突回避義務とその違反の態様が重要であることは勿論であり、前記二3(隈及び市川の過失)及び三2(全日空機操縦士らの過失)で認定したように、隈については、接触四四秒前から一四秒前まで三〇秒間という長時間にわたり、視認、衝突予見及び衝突回避可能性があること、接触四四秒前から三一秒前までの水平直線飛行の間は、全日空機が教官機(隈)の右方六六・六度ないし六九・五度、上方五・五度ないし九・四度とほぼ一定の見易い位置にあつたこと、接触三〇秒前から全日空機は、徐々に教官機の横の方向まで移動していき、接触二三秒前以降は教官機の横の方向よりも後方に位置し、教官機から全日空機はやや見にくい位置にあつたこと、市川については、接触四四秒前から三〇秒前までの水平直線飛行の間、全日空機が訓練生機(市川)の右方四九・三度ないし五八・一度、下方一・二度ないし三度とほぼ一定の、しかも見易い位置にあつたこと、全日空機機長及び副操縦士については、接触三〇秒前から一〇秒前までの間、訓練生機は全日空機の左方六二・二度ないし六六・七度、上方二・三度ないし四度とほぼ一定の位置にあり、しかも、次第に機影を大きくして近づいてくる状態であつたこと、さらに、前記一2(四)で認定したとおり、自衛隊機は、接触四四秒前以降接触時まで終始松島派遣隊の定めた飛行制限空域(ジエツトルートJ11Lの両側各五海マイルの範囲)を飛行していたこと、そして前認定のとおり、全日空機は、管制承認を受けた飛行計画に従い、ジエツトルートJ11L近傍(ジエツトルートJ11Lの約六キロメートル西側)を飛行していたのであるから、有視界飛行方式により飛行する自衛隊機操縦者は、国の航空管制が行われていることを尊重し、かつ、機動隊形の編隊飛行の危険性から、ジエツトルート近傍を飛行する民間旅客機と接触することのないよう特に厳重な見張り義務を負うこと、しかも、隈は、右飛行制限空域付近で飛行訓練をしていることを認識していたか、または認識すべきであつたから、右飛行制限空域付近においては、早期に自主的に接触を回避すべき義務を負うこと、以上の顕著な事情及び前に詳述した本件事故に至る諸事情を総合勘案し、自衛隊機操縦の隈、市川の過失と全日空機操縦の機長、副操縦士の過失とを対比すると、双方の過失割合は、六対四とみるのが相当である。
原告ら及び被告は、それぞれ本件事故が自衛隊機又は全日空機の一方的過失によるものであるとして各請求をし、かつ、相手方の請求に対しては自己側の過失を全面的に否定しているが、これらの主張は、仮に自己側の過失が認められて賠償責任を負わねばならない場合には、その賠償額の算定に当つて相手側の過失を斟酌すべき旨の主張を含んでいるものと解しうるし、また、一般に過失相殺は、その主張がなくても職権でなしうるものと解するので、前記のとおり、本件接触事故による双方の請求について自己側の過失を斟酌することとし、双方主張の本件各不法行為による損害賠償額の算定に当つては前記過失割合によることとする。
ところで、原告全日空、被告が本件事故を機縁として支出した金員のうちには、後記認定のとおり本件不法行為による原告全日空、被告の損害とみるべきではなく、本件事故によつて蒙つた第三者の損害を填補するものとして支払われたものが認められる。そして、本件事故は、原告全日空の被用者たる操縦者らと被告の自衛隊員らの過失の競合による共同不法行為によるものであること前認定のとおりであるから、第三者の蒙つた損害は、原告全日空及び被告が連帯して賠償すべき義務を負い、賠償義務者である原告全日空及び被告の間においては、損害発生に対する寄与度、過失割合に応じて負担させるのが公平の理念に合致するものというべきである。従つて原告全日空または被告が被害者である第三者に対して、その損害の填補として金員を支払つた場合には、そのすべてを支払者の負担とすべきではなく、他の不法行為責任者の負担部分については、その者に負担させるのが相当であるので、弁済者は他の不法行為者が本来負担すべき責任の割合(負担部分)に応じてその者に対して求償することができると解すべきである。
(原告全日空は、事務管理による費用償還、または第三者弁済による求償としか主張しないが、弁済者が、共同不法行為者である場合には、前記法理が準用されることはいうまでもない。けだし、共同不法行為者間の求償も、窮局的には第三者弁済による求償の一場合に過ぎないからである。)
この理は、被害者である第三者に対する支払が、共同不法行為者のうちの一人の委託によつてなされた場合にも、全く同様で、自己の負担部分を超過する部分については、他の共同不法行為者のための事務処理であるから、事務処理費用として、当該共同不法行為者に対し償還請求することを認めるべきであり、また委託がないときは、弁済者は自己の負担部分を超過する部分については、他の共同不法行為者の債務の弁済をなしたことになるので、他の共同不法行為者に対して第三者弁済または事務管理の法理により求償または償還請求することができると解するのが相当である。
そうだとすれば、第三者たる被害者または権利者に支払つた者の相手方に対する償還ないし求償請求の範囲は、いずれの場合にも、相手方の前記過失割合による負担部分の限度にかぎることとなるというべきである。
五~九 <省略>
一〇 結論
以上の次第で、原告全日空の請求は、主文第一項の限度で、原告各保険会社の請求は、主文第二項ないし第一一項の限度で、反訴原告(被告)の請求は、主文第一二項の限度でそれぞれ理由があるから正当として認容し、その余の請求は失当であるからいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用し、被告の仮執行免脱の申立は相当でないから、これを却下して、主文のとおり判決する。
(裁判官 小川正澄 若林昌俊 芝田俊文)
別表、別紙図面一ないし九<省略>